死神の休日


 この物語を書き直したとして、何の意味があるんだろうか。
 その問いが、頭の中で延々と繰り返されていた。
 文芸部の部室は、俺以外に誰もいない。こんな土曜日の夕方に活動など決まっていないのだから、当然だ。運動部は活動している所も多いようで、網戸にしておいた窓から時折かけ声が入ってくる。遠い人の声と、部屋に差し込む夕日はよく合う。雑然と散らばるパイプ椅子やソファは空っぽで、寂寥感を演出するだけの道具と化している。執筆とは孤独な作業だということを、否が応にも意識させられる。
 長机の上にはルーズリーフと筆記用具、参考資料だけ。誘惑になるものは置いていないはずなのに、全く成果が上がらない。俺は結局、一文字も書かずにシャープペンを置いて、机に突っ伏した。
 昨日の夕方、自分の部屋の掃除をしている途中で、幼い頃に書いた物語が見つかった。今あらためて見てみると、背中がむず痒くなるくらいに恥ずかしい、幼稚な話だった。その場で処分してしまおうという気持ちもあった。けれど、これを書き直したいという衝動が、にわかに湧いてきた。昨日の夜は、ずっとそのアイデアを考えていた。
 後はそれを文字にするだけだった。けれど、何も書き出せずに三十分経とうとしていた。俺は背後に睡魔が忍び寄ってくるのを感じた。それもいい。少し仮眠をとって頭を切り替えてみれば、何か変わるかもしれない。
 数分か、数十分かは分からない。あまり長い時間ではなかったように思う。土に水が染み込むように、徐々に意識が戻ってきた。
 傍に、人の気配を感じた。まだギクシャクする目蓋を開けると、薄ぼんやりとした視界に、一人の女子生徒の姿が写った。
 起きたつもりで、俺はまだ寝ぼけているのかと疑った。肩を少し超える長髪の女の子。たったそれだけの要素に、俺は懐かしさを感じた。
 彼女は、白紙のルーズリーフの隣に置いてあった原稿用紙の束を手にとり、読んでいた。それこそ、今回書き直すつもりの物語の原稿だった。
 俺が身体を起こすと、彼女はこちらに視線を移した。が、一瞥しただけでまた意識は原稿用紙に戻った。一枚読み終われば、次の紙へ。紙を重ねかえるたび、カサカサと耳障りな音がする。あまりにも堂々と、泰然自若たる様子で読んでいるので、止めに入る気も削がれた。
 手持ち無沙汰になり、俺はその間彼女を見ていた。俯きがちになり、長い髪に半ば隠された横顔は、初めて見るものではなかった。下弦の月形、長い睫毛に縁取られた目。まっすぐ通った鼻筋。童顔というのとは違う。表情によっては、俺よりもずっと年上のような印象すら受ける。たしか、演劇部の岩波さんだったか。ここ文芸部室には、他の文化部の面々がよく乱入してくる。そのたびに顔を合わせていて、少し雑談したこともある。
 ただ彼女は、いつも髪を耳の下あたりで二つにまとめていた。髪を下ろした今日の岩波さんはずっと大人びて見えて、すぐには彼女と分からなかった。
 読み終えると、彼女は原稿用紙の束をテーブルに置く。
「いいお話だね」
 一言、感想を述べた。
 『いいお話』。適切な評価だと思う。けれど俺は、これが『いい話』だからこそ気に入らなかった。書き直したいと思ったのだ。
「……いい話っていうか、幼稚なだけだよ。ガキの頃の、くだらない遊びだし」
 彼女が褒めてくれたと、一瞬でも考えてしまったのが恥ずかしい。それを打ち消すように、自然と冷淡な口調になった。彼女もそう感じたのか、申し訳なさげに言った。
「ごめん、勝手に読んじゃって」
「いや、いいよ。読みたいなら駄目って言わないし」
 声の調子を丸くするように努めて答えると、少し、彼女の表情も和らいだ。
「今の徳間くんが書いた話も、読んでみたいな。たしか、部誌に載ってるんだよね」
 胸の奥を、チクリと刺すものがあった。俺は、なんでもないような顔をして、彼女を制する。
「俺、もう物語は書いてないんだ。
 小学生までで、やめた。無駄に思えたから」
 しばらく岩波さんは口を開かなかった。俺の発した言葉について、考えをめぐらせているようだった。
「……どうして無駄だと思ったの、って聞いてもいい?」
 小声ながらも強い意志を感じさせる調子で、そう言った。
 彼女が食い下がったのは、意外だった。高校生の何気ない日常会話では、言葉の裏を問いただそうなんてのは一種のタブーだ。何か裏がありそうだなと思っても、額面通りに言葉を受け取って、聞き流すのが吉。そういうものだと思っていたから。
「話したくないことなら、ごめん、聞かないけど」
 俺が答えあぐねているのを見てか、岩波さんは逃げ道を残した。無邪気な好奇心でないことは分かる。ただ、依然として真剣な口調は崩さなかった。端正な顔立ちの彼女が表情を引き締めると、かなり迫力があった。
「いや、話そう。聞きたいなら、駄目って言わないよ」
 内心は冷や汗をかいている心地だった。俺は完全に彼女の雰囲気に呑まれていた。
 俺が答えた後、「ちょっと待って」と言った岩波さんは、不意に携帯(スマートフォン?)を取り出してなにやら動かした。メールか何かが来たのだろうか。彼女がそれをポケットに戻すのを待ってから、俺は話を切り出した。
「俺が物語を書くのをやめた経緯について話すなら、まず、物語を書き始めた経緯を話したほうがいいと思う。
 俺には、六つ上の幼馴染がいた。ちょうど、今の岩波さんとそっくりな背格好だった」

 彼女、美涼(みすず)とは家族ぐるみの付き合いだった。母親同士が大学からの友人で、昔から顔を合わせることが多く、家も同じ地区内にあった。それでも小学校以前は年が違いすぎて、互いに打ち解けることはなかったし、実際覚えてもいない。
 俺が小学校に入学したころ。俺の母校は一年生と六年生の交流会のようなものが年に何回かあった。どちらも一クラスしかなかったから、必然的に俺と美涼はそこに居合わせた。顔見知りというのを理由に、美涼が俺のいる班の担当になることも多かった。六年生の役割といえば、学校探検の主導をやったり、遠足の引率やったり、水泳授業の補佐だったり。不思議なことに、一年生と一番関わりが深いのは六年生だったのだ。
 その交流会のうちの一つに、六年生が美術の授業で作った絵本を発表するというイベントがあった。
 そのとき美涼の作った物語を聞いて、自分も物語を作りたいと思ったのが、物語を書いた最初だった。彼女が中学校に上がった後も、親同士が会うときにまた会って、考えた物語を話したり、書いたのを読んでもらったりした。美涼は、小学生にしては上出来だという意味でだろうけど、毎回褒めてくれた。それで、ますます俺は物語を作ることに夢中になっていった。本を読むのも好きになった。将来の夢は、ときかれて、『作家』って答えるようになったのもこの時くらいからだ。
 その夢のことを話すと、美涼は応援していると言ってくれた。俺の書いた物語が好きだ、いつか本を出したら一番に読ませてほしい、とも。
 でも今となっては、彼女は心から応援してくれていたのかどうか。本当に俺の書いた物語が好きだったのかどうか。疑うたびに、かつて大喜びした言葉が虚しく思えてくる。
 幼い俺に夢を与えてくれたのが、美涼だ。
 けれど、俺を夢から引き揚げたのも、美涼だった。

 そこで俺は話すのを中断した。
 しばらくの間、沈黙。運動部のかけ声はいつの間にか消えていた。渡り廊下にたむろしているのか、帰りがけの文化部員たちの騒ぎが聞こえる。話の途中で、俺の隣の椅子に腰かけていた岩波さんは、怪訝そうに俺を見つめた。
 自分から話すと言っておきながら、俺は躊躇した。ここから先は、美涼の個人的な事情に触れなければならない。赤の他人の岩波さんにそれを明かすのは、軽薄なことだと思った。
 適当にごまかして、話を終わりにしよう。その手立てを探ろうとしたときだった。

「――『少女は生まれつき、重い病気にかかっていました』」
 唐突に、彼女は机上の原稿用紙の一節を読み上げた。染み入るような、落ち着いて丁寧な声調。かつての自分が綴った物語の冒頭が、彼女のナレーションによって切り開かれた。
「もしかして、美涼さんも?」
 岩波さんは追求する。暗に、話を続けろと言われている気がした。
 俺は彼女に応えるため、口を開く。記憶から当時の光景が脳裏に映し出される。それをできるだけ繊細に、言葉に落とし込む。この感覚、どこか懐かしい。
「美涼は……」

 心臓に、先天性の疾患を持っていた。正確な病名は知らないが、基本症状が軽い動悸や呼吸困難。激しい運動を除けば、日常生活は問題なく送れる程度だ。
 美涼は小学校に入る少し前くらいから、すでにその病気だと診断されていたという。それでも当時は、美涼は少し身体が弱いというくらいの認識しかなかった。小学生になったばかりの俺には、病気について詳しいことが知らされなかったし、いつも会う彼女の姿は健康そのものに見えたからだ。
 そして、美涼が高校に入学してしばらく経ったころ。俺は十歳で、小五になった初夏のころだった。彼女の病気が悪化した。合併症が出て、突然死のリスクや、体に掛かる負担が重くなった。
 この時期から、美涼と会う機会は減り始めた。彼女は入院や診断を繰り返していて、とても俺と会うどころではなかった。日常生活から彼女の姿が消えて、やっと当時の俺も事の重大さが飲み込めてきた。
 夏休みが来て、俺は母親と美涼の見舞いに行った。家から電車で一時間近くかかる、知らない町の病院だった。
 覚えている限りでは、誰かが入院している病室に入ったのは、この時が初めてだった。入ったとき、酸っぱいようなにおいを感じて一瞬ひるんだ。すぐに尿のにおいだと分かったが、気にしないように努めた。部屋を区切るカーテンはさながら白い城壁のようで、俺はまた萎縮した。一人だったら、思わず引き返していたかもしれない。
 美涼は四つの区画のうちの一つにいた。ベッド近くの棚には、錠剤が入ったシートが何種類か置いてあった。俺たちと一緒に来ていた美涼の母親が、それらをさり気なく片付けた。俺たちが持ってきた見舞いの品、造花と缶飲料の詰め合わせが代わりに置かれた。
 彼女は近いうちに退院することが分かっていた。だからそれはお見舞いというより、ほとんど退院祝いでもあった。けれど、俺と美涼の会話は弾まなかった。俺は最初に「退院おめでとう」といった趣旨のことを言うつもりだった。でも、美涼の淀んだ目を見ていると、めでたいなんて言う気は失せて、「久しぶり」と言って会話を始めた。
 「元気そうだね」だの「心配だったよ」だの、感情のこもった言葉は何もかも白々しく聞こえるような気がして、言おうとするたびに口を噤んだ。俺は二歳児みたいにたどたどしく言葉をかけて、彼女はそれに短く答える。その空虚なやり取りがしばらく続いた。言葉が、端から白くなって死んでいくみたいだった。
 結局、面会の時間は十五分もなかった。長い帰り道、気分はどん底だった。俺は自分があんなに口下手だとは思ってなかった。小学校の友達と会話するときと同じように考えていたから、少なからずショックを受けた。でも、美涼も言葉少なになりすぎだと思っていた。退院が決まったのだから、これからは色々なところに行けるとか、地元の知り合いといつでも会えるとか、そんな話をするかと思っていたのに。彼女は全く触れもせずに、上の空で相手をするだけだった。俺はそれがなぜなのか、分からなかった。その時は。

 今なら、その理由が分かる。
「普通、退院イコール病気は治りましたって考えると思う」
 俺は岩波さんに補足説明をする。
「うん」
「でも、彼女は違った。その病気は治せないんだ。手術すると、かえって悪化してしまうという特徴があった。だから、美涼は一生、病気とそのリスクを抱えて生きていかないといけない。それがはっきりしただけだった」

 美涼の病状は落ち着いたけれど、次第にそれは身体よりも精神を蝕んでいった。夏休みが終わり、二学期が始まっても、彼女は家で寝たきりだった。うつ病か、ノイローゼに近い状態だったのだと思う。
 信じられないだろうけど、その話は俺の家庭まで伝わってきた。家族ぐるみの付き合いは深い。親たちは、家庭の問題だろうと隠したてることなく、二人で共有していた。
 俺は美涼が学校に通っていないことを聞いて、なんとか彼女に立ち直ってほしいと思った。自分に何ができるだろうと考えた。けれど同時に、また失敗するんじゃないかと恐れてもいた。彼女の前に立った瞬間に、同情だろうと励ましだろうと、たわいもない日常会話だろうと等しく意味を失ってしまう気がした。ただの言葉では美涼を救えないことを理解していた。だから、残された手段は一つしかなかった。
 俺はずっと、物語は読んだ人の心を変える効果があると信じていた。人に希望を持たせる。愛を教える。悲しみを教える。悪を戒める。憧れを抱かせる。知識を与える。悩みを解決する。もっと言えば、人生を変える。ある物語が称賛されるとき、必ずと言っていいほど使われる文句の数々。それをそのまま鵜呑みにして、当時の俺も『物語の力』を信仰した。実際、どうして作家になりたいのかと尋ねられれば、躊躇なく「物語を読んでもらった人の心に、何かを残したいから」などと答えていた。
 俺は、物語を書き始めた。彼女に希望を与える物語。読んだ人が、生きることは素晴らしいのだと思えるような物語。そうして、書き始めてから一月くらいかかって、その物語は完成した。

「それがそうだよ」
 彼女が読んだ、『死神の休日』というタイトルの物語。その原稿用紙の束に目を向ける。
 岩波さんはそれに優しく触れて、無数によったシワを伸ばした。それから、またある一節を朗読する。
「――『日に日に彼女の病気は悪くなり、ついに女の子は寝たきりの生活になってしまいました』……主人公の女の子と、美涼さんを重ねて書いたわけね」
 そう、俺の過ちの一つは、馬鹿正直に主人公と美涼の状況を重ね合わせたことだ。健康体で生まれてきて、入院経験なんて一度もない自分が、彼女の置かれた状況を本当に理解できるつもりでいた。
 幼い俺は、自分と他人の区別もつけられなかった。自分が知ったこと、経験したこと、それがいつでもどこでも、誰にでも通用すると思っていた。その愚かしさに、やり場のない怒りが湧いてくる。
「――『ひときわ苦しく、眠れない夜のことでした。女の子の意識は熱でぼんやりとし始め、身体にふれる汗の気持ち悪さが、なくなっていきます。ふと彼女は、ベッドのわきに死神が立っているのに気づきました。
 女の子は死神に、かすれる声で言いました。「わたしを動けるようにしてください。ほんの少しの間だけでいいのです。お願いです」と。
 彼女は、まさか本当に死神が自分を助けてくれるとは思っていませんでしたが、藁にもすがる思いで、必死に訴えました』」
 死神は「今ここで、死ぬまでに味わう苦痛を我慢できれば、そうしてやらなくもない」と条件付きでその提案を受け入れる。女の子は痛みに耐え、十四日間の余生を手に入れる。

「とにかく俺は、寝たきりの彼女を起こしてあげたかった」
 少しの時間でも、日常生活に復帰できればいいと思った。病は気からという言葉を、わりと本気で信じていた。
 物語が完成すると、すぐ美涼に見せに行った。俺の母親には、彼女の家に行かないよう言われていたが、嘘をついて家を出てきた。
 美涼の家に着くと、彼女のおばあちゃんに迎えられた。その家は二世帯で住んでいて、平日、両親は仕事に出て、祖父母は家で田んぼや畑の世話をしていた。その時期は、ちょうど稲の収穫をしていたようだった。
 おばあちゃんは俺が美涼に会うのを断らなかった。むしろ来てくれて感激していたようで、美涼に俺が来た旨を伝えに飛んでいった。俺は少し気分をよくして、二階にある彼女の部屋に向かった。部屋の前でノックをして、「秀英(しゅうえい)です」と言うと、少し間があり、どうぞと返ってきた。入ると、美涼はベッドで上半身を起こしかけていた。髪を手で撫でつけて軽く整え、こちらを向く。淡い水色のパジャマを着ていた。
 俺は挨拶もそこそこに、本題に入った。
「また物語を書いたんだ。昔みたいに、読んでみてよ」
 彼女は戸惑っていたが、言われるままに俺の手から『死神の休日』を受け取った。タイトルを見て、「いろいろ漢字使えるようになったね」と、微笑んでくれた。
 美涼は、一行目を読んだ瞬間に笑顔を消した。そうして、真顔のまま、眼球と原稿用紙を持つ手以外は微動だにさせずに、黙々と読み進めていった。

 女の子は、死神とともにその十四日間を過ごす。彼女は年頃の少女らしく、一目見た死神の姿に恋慕をしていたのだった。
 感情が希薄で機械のような死神は、彼女とともに時を過ごして徐々に人間らしく変わっていく。野山に出て、女の子と一緒に弁当を食べる。海に出て、互いに泳ぎを練習する。女の子が物語を書き、それを死神に読み聞かせる。その日々は、彼女自身が病気であることを忘れてしまうほど楽しい時間であり、死神にとっても新鮮な体験だった。

 ――そうして最後の日、死神は、持ち前の大きな大きな鎌で女の子の命を奪うはずでした。けれども彼は、鎌を手に悲しそうな顔をして言うのです。
「人間の生を知ってしまった私は、もはや死神ではなくなった。その証拠に、私は今ここでお前の命を奪うことを、今日までの日々を終わらせることを惜しいと思う」
 そうして、死神は死神をやめて、女の子とともに暮らすことを決めました。
 女の子の病気は、いつの間にか治っていました。死神にお願いをしたときに治してもらえたのか、楽しい日々を過ごすうちに病気であることを忘れてしまったのか。それは、さて、わかりません。
 二人はやがて夫婦となり、幸せに暮らしました。

「綺麗なお話」
 読み終えて、美涼は呟いた。当時の俺には陶酔したような調子に聞こえたが、真実、彼女は皮肉のつもりだったのだろう。
「私も、この女の子みたいになれたら幸せね」
 俺は思い切り頷いた。彼女はまさに俺が求めていた言葉をくれた。こうして物語を読んでもらってよかった、そう思った瞬間だった。
「でもね」
 美涼の声が僅かに硬くなる。
「どんなに綺麗でも、物語なんて結局は嘘なのよ」
 語尾が震えていた。彼女は原稿用紙の束の中心に手を動かし、両手でつまむように持つ。その手も、震えていた。
「嘘だから、いくら作っても現実は何も変わらない」
 美涼は苦しそうに声を絞り出す。
 そして、原稿用紙を真っ二つに引き裂いた。
「くだらない。バカバカしくて、もう付き合ってられない。現実なんてこうは行かないの。私の病気は治らない。手術をしても無駄。そのままでもいずれ病院に閉じ込められる。飛行機も乗れない。運動もできない。子供を産むこともできない」
 彼女は激したわけではなかった。申し訳なさそうに、言ったそばから後悔するように、絶望的な言葉を並べ立てた。その間、原稿用紙を震える手で二度、三度と千切り続けていた。
 彼女は辛そうだった。ひょっとしたら、発作を起こして胸の痛みをこらえてるんじゃないかとさえ思った。俺は美涼の姿から目を離せないまま、脇の下に冷たい汗を感じた。目の前で、自分が心血を注いだ物語が引き裂かれているのに、怒りも悲しみも沸かなかった。ただ、彼女があまりに痛ましくて、見ているだけの自分がその苦しみを体感できないことに、罪悪感を覚えた。
 俺がここで「当時、美涼の苦しみが伝わって、こっちまで苦しかった」とか言うのは、嘘だ。その苦しみはどれほどのものかなんて、自分にはさっぱり分からなかった。なんとか分かろうとして彼女の気持ちを考えても、俺の想像力なんて糞の役にも立たなかった。俺は美涼の苦しみに共感したわけじゃない。共感したいのにできないのが苦しかった。彼女と自分との間には、絶対に超えられない断絶がある気がした。
 彼女は紙を千切るのをやめて、俯く。長い髪がしなだれかかり、表情を隠す。泣いているわけではないのは、当時の俺にもなんとなく分かった。彼女がきつく拳を握りしめると、破れた紙の一部がくしゃりと音を立てて潰れた。
 再び上げられた彼女の顔に、悲痛さはなかった。こちらに向けられた視線の鋭さに身がすくんだ。
「秀英、もう物語を書くなんてやめなさい。もっと、実際に役立つようなことをしなさい。そのほうが、あなたも、あなたの周りの人も、きっと幸せになれるから」
 諭すように言った声は、今でもはっきりと思い出せる。この言葉を言う時だけ、なぜか急に美涼が老けてしまったように思えた。自分よりも何十年も多く生きた人に、忠告されたかのような重みを感じた。俺は、神妙に頷くしかなかった。
 家に帰るまでは、涙をこらえていた。でも、自分の部屋で、今までに書いた物語を前にしたとき、抑えていた情動が一気に溢れ出た。俺は泣き叫びながら、その物語の全部を持って玄関から飛び出し、家の前の用水路に投げ棄てた。すぐに母親が追いついて事情を聞いてきたけれど、俺は赤ん坊みたいに泣き声を上げるだけで、何も説明できてなかったと思う。
 どんな気持ちだったかは、よく思い出せない。でも、物語は俺にとってすごく重要なものだった。それを捨てろと言われたんだから、自分の存在を否定されたのと、ほとんど同じ事だったんだろう。自分も用水路に飛び込まなかっただけ、まだ冷静だったかもしれない。
 その後、俺と美涼は一度も会うことがなかった。親同士の交流も、徐々に希薄になっていった。彼女は一年と少しして、俺が中一の春頃に亡くなった。
 後に、セロハンテープで修復された『死神の休日』が、美涼の母親の名前で郵送されてきた。

「これで、美涼の話は終わり」
 長々と語り、随分と時間が経っていた。部屋が薄暗くなってきたので、俺は席を立って電灯のスイッチを入れた。夕暮れのもたらす哀愁はそれまでだ。無機質な光のもと、俺は過去の話から現実に戻ってきた。
「これが物語の世界だったら、きっと俺は彼女を救えなかったことを悔いて、医者になるために猛烈に勉強をするとかあるんだろうけど。そんなにうまく行かなかった。勉強しても成績は伸びなかったし、高校受験も第一志望には受からなかった。美涼の言った通りだ。
 かと言って、作家になるために努力してきたわけじゃない。俺は、物語の価値を信じられなくなった。物語を新しく書くこともしなくなった」
 俺は椅子に戻りつつ言った。その途中、岩波さんが手を猫みたいにして目元を拭うのを見た。頬に残った涙の跡も、かすかに見えた。
 俺は、彼女が何のために泣いたのかよく分からなかった。俺が灰色の少年期を送ったと知って、急に哀れに見えたんだろうか。
 これ以上続ける話は無い。俺たちはしばらく黙っていた。
「物語を書かない、文芸部員?」
 岩波さんが尋ねた。声はまったく乾いていた。
「そうだよ。別に書くのが義務ってわけじゃない。知ってのとおり、結構適当なんだよ。この部」
 文芸部は活動日も自由、部室への出入りも自由ときた。自主的になにか書かなければ、実質、帰宅部と同じようなものだった。
「書かなくてもいいのに、それ、書き直そうとしたの?」
 彼女は、机上の『死神の休日』を指さした。ルーズリーフと筆記用具が置いてあるのだから、書き直そうとしたのは明らかだった。
「ご都合主義的な展開が気に入らなかったんだ。死神が命を助けて終わりって、なんだよそれ。『機械仕掛けの神』じゃないか」
 するすると言葉が出た。その全部が、過去の自分自身に向けた糾弾でもあった。
「こんなのものは馬鹿馬鹿しい幻想だ。美涼に破かれたって当然の駄作なんだよ。ポジティブな気持ちでいれば、何もかもがうまくいくと思ってる。そんな訳がないだろうが。
 主人公の病気は治らずに、高熱で苦しんで死ぬ。死神も、一緒に過ごした時間も全部、死にかけの少女の妄想。そのくらいでやっとリアリティが出てくる。そういう風に書き直したかった。でも」
 ――秀英、もう物語を書くなんてやめなさい。
 まぶたの裏に、美涼の姿が浮かぶ。彼女の言葉が、呪いのように繰り返して蘇り、俺の思考を乱し、全身を縛る。
「駄目だ。一文字だって書けなかった。自分のやってることに、意味が無いんだって思うと」
 まっさらなルーズリーフに目を向ける。今までこれに費やした時間さえ惜しくなる。
「今日、はっきり分かった。俺はもう二度と物語を書けない。『死神の休日』も、処分しようと思う」
 俺はそれを最後に、岩波さんから目線を外した。机の上を片付けて、もう帰ろうと思った。俺は腰を上げた。
「『物語を書けない』っていうのは、おかしくない?」
 しばらく口を開かなかった彼女は、鋭い口調で切り出した。
「だって徳間くんは、もう物語を書いてるもの」
 岩波さんの手には、いつの間にかスマートフォンが握られていた。こちらに向けられたその画面を覗くと、文字の羅列。
 先ほど俺が語った美涼の話が、そのまま文章になっていた。
 わけが分からず、俺は立ちすくんだ。まさか、俺が話しているそばから携帯に打ち込んでいたわけでもないだろう。
「演劇部で、アドリブの練習に使ってるアプリがあるの。音声を文字データに変えるっていうやつ」
 目を白黒させている俺を見てか、彼女はすぐ種明かしをした。
「口で言ったことを文字にする。そうやって書かれた物語なんて、たくさんあるよね」
 これが、物語だって?
「違う。美涼の話は本当なんだから。これは物語じゃなくて、現実の話だ」
「純粋な事実じゃないでしょ。徳間くんの感情が入ってるもの」
 岩波さんは動じない。断言する声は堅く、俺は言葉に詰まった。
「徳間くんは矛盾してるよ」
 打って変わって、彼女はなだめるように優しく言う。
「私に話をしても、昔のことをやり直せるわけじゃないのに。物語は無意味だって言うのに。それでもつらつらと話をする」
 責められている気はしなかった。ただ、図星を突かれてはっとした。
「徳間くんの取り柄は、やっぱり物語なんだよ」
「……まったく無駄な取り柄だね」
 俺はそう吐き捨てる。
「無駄でもなんでも、徳間くんはきっとやめられないと思う。やめなくていいんだよ」
 彼女の肯定的な言葉は、確かに耳に心地よい。でも、それだけだった。俺は慰められたわけでも、積極的に物語を書こうという気になったわけでもない。岩波さんの言葉も、俺の言葉も、上滑りをするだけ。虚しさだけを残して、端から白くなって死んでいく。やっぱり物語なんて無駄なんだという思いは、変わらなかった。
 それでも、まあ、彼女の言う通り、俺は物語を書いていればいいのかもしれない。いや、それしかできないと言うべきなのか。世の中を動かせるような力のない人間は、目の前のこと、あるいは頭の中のことを言葉にするくらいしか、できることがないんだ。
 俺は開き直った。諦念(レジグナチオン)だの、達観だの、そんな格好のいい言葉は相応しくない。「人生なんて、ままならないものだ」などと抜かしながら、シニカルを気取って世界を下目に見る。そうやって、崖っぷちまで追い詰められた自尊心を守るんだ。
 俺が視線を下げたのを、納得したと受け止めたのか。岩波さんも視線をスマートフォンに移した。
「この文章は、勝手に他の人に読ませたりしないから。あとで返すね」
 正直、わざわざ返してくれなくてもいいと思った。ただ、もう彼女の意向に待ったをかける気力もなかった。俺は彼女の求めに応じて、なし崩し的にメ―ルアドレスを交換した。
 どうしてこの場で返してくれないのかは疑問だったが、彼女が「あとで」と言うからには、あとで返ってくるんだろう。深く考えるのをやめた。
「それじゃ、またね」
 岩波さんは挨拶を投げかける。応えるとすぐ、彼女は校内のどこかへ消えた。すっかり夜の帳が下りた中、俺は一人ぼんやりと帰路に着いた。

 それからは、とりたてて言うほどのこともなく日常生活を送った。部室には行かず、岩波さんと顔を合わせることもなかった。一時、昔の記憶を思い返したことによる感傷は、日々の膨大な授業内容や、友達との雑談、その他もろもろの情報の堆積の下に埋もれていった。今まで、そうだったように。
 週末を迎えた夜の事だった。夕食後、風呂から自室に戻ってくると、携帯にメールが五通届いていた。
 件名は全て、『死神の休日』。アドレスは、岩波さんだった。
最初に届いたメールの冒頭には、こう書いてあった。
〈おまたせ。誤字とか変換ミスは直したと思うんだけど、一応通して読んでみて〉
 俺は、何とはなしにそのメールの中身、美涼との昔話を読み始めた。俺や美涼、岩波さんの名前は、架空の名前に置き換わっていた。
 そのせいか、俺はそれを自分が語った言葉としてではなく、一つの物語として読んでいるかのような心地がした。授業以外で小説を読むのは、久々だった。
 ただ、俺はそれを一気に読み切ることができなかった。中断せざるを得なくなった。途中で、泣いた。
 物語を読んで泣くというのは、階段を転げ落ちるようなものだと思う。自分はそう簡単に泣くはずがないと思っている。それでも、ふとした瞬間に踏み外す。あ、しまった。そう思ったら後は落ちていくだけだ。制御できず、滂沱と垂れてくる涙に自分自身で愕然としながら、ただ収まるのを待つしかない。
 今の自分は、はたから見ればとんでもなくキモいんだろうなと思う。自分で書いた物語を読んで泣くなんて、もう色んな意味で駄目だろう。
 物語なんてくだらないから、もう書かないと言った奴が、物語に泣かされる。笑い話にしても酷すぎた。
 頭の隅では馬鹿馬鹿しい時間だと思いつつも、俺は結構な時間めそめそ泣いていた。顔面を押し付けていたベッドのシーツには、鼻水だか涙だか分からない液体が、こぶし大の染みになっていた。死にたくなった。
 十時を過ぎた。俺は物語を最後まで読み終え、疲れた目を閉じて休んでいた。短く携帯が鳴った。また、岩波さんからメールが届いたのだ。
〈これでも、『物語は無意味だ』って思う?〉
 文章から、勝ち誇った彼女の声音がにじみ出てくるようだった。
 俺は心地よい敗北感を感じながら、息を吐いた。すぐに返事を書く。
〈前言撤回するよ。無意味じゃなかった〉












(了)


2013年8月8日公開


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