起きたら三時を少し回ったところだった。エアコンを消して、台所に出る。蒸し暑い。冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに注ぐ。やっぱり夏は、涼しげな透明のグラスがいい。しかしそれも、麦茶を満たすとすぐに曇ってしまって、僕は今日、湿度の高いことを恨んだ。一気にグラスをあおって、用が済んだ麦茶の容器を冷蔵庫にしまう。ついでに冷蔵庫、冷凍庫の中身をチェック。めぼしいものは何も入っていなかった。何か冷たいものを食べたい気がした。でも、母さんはいつも通り、五時までは帰ってこないだろう。
僕は、仕方なく外に出て買ってくることにした。外に出るのが億劫な時期というと、冬もあるが、僕はやっぱり夏を思い浮かべる。昔――というほどでもない昔、二年前の夏休みに、僕の意識は飛んでいた。
* * *
重い扉を開けて外に出ると、生ぬるいゼリーみたいな大気と強烈な太陽光線に出迎えられた。夏休みの後半、暑さが本格的になってきたこの時期ほど、家を出るのがいとわしい時期もない。しかし、ただ立っているだけならまだマシだ。僕はこれから、この炎天下で三時間半、運動し続けなきゃいけないんだから。
僕は玄関を後ろ手に閉めると、車庫の前に置いてある自転車の元へ向かった。自転車のサドルをうっかり触ってしまい、その熱さに慌てて手を放す。思わずため息が出た。ハンドルを握り、スタンドを上げ、自転車を押して庭の入口まで出た。家の周囲は見渡す限り田が広がっている。庭先の道は当然舗装されておらず、タイヤの跡と砂利で川ができている。どう見ても公道じゃない小さなあぜ道。県の中でも有数の片田舎に僕の家はある。そのせいで、僕は中学校まで片道三十分もかかってしまう。
さらに悪いことに、今日は朝から気圧が不安定とのこと。その言葉に違わず、あたりの青々とした稲の葉があちこちで波打っていた。僕の体にも容赦なく風がぶち当たる。さわやかというには程遠い湿った熱風だ。それでいて威力はあるのだから性質が悪い。家を出て数歩だというのに、出鼻をくじかれた。ますます僕の足は重くなった。
僕は、緩慢な(自分でもそう思える)動作で、サドルにまたがり、ペダルをこぎ出した。太ももが筋肉痛で痛い。なんというのか、上から肘をぐりぐりと押し付けられるような痛み。これはお盆休みに体を動かさなかった分のツケだ。
もともと運動は得意な方ではなかった。ただ、嫌いではなかった。スポーツ漫画などに憧れていて、自分も技巧を磨き、強くなれたら格好いいと思っていた。だから中学に上がる前から、絶対に運動部に入って三年間続けるのだと決めていた。そして、望んだとおりにテニス部に入り、一年以上練習を続けてきた。しかし、まあ、悲しいほどに上達しなかった。それが自分の中だけの感覚ならまだよかったのだけれど、整然と数字が並ぶ得点シートや、部内ランキングというのは嘘をつかない。昨日は一年生のエース相手に一ポイントしか取れずにボロ負けした。いつしか、終わった後に「ドンマイ」と笑って声をかけてくる人もいなくなった。まるでその試合など行われなかったかのように次の部員がコートに入った。恥ずかしさを感じている自分が、自意識過剰な人間に思えた。誰も僕の存在など気に留めていなかった。僕とほかの部員は、本当に同じ部活に所属していて、本当に同じスポーツをしているのかな。そんなことを思った。僕と彼らの間には壁がある、ではまだ言い足りない。「次元が違う」という言葉は、こういう時にこそ使いたい。そのくらいに、僕はテニスが下手なのだ。しかし書類の上ではテニス部に所属している以上、練習はしなければならない。それが苦しい。
今まで、下手なままでいいと思ったことはない。自分なりに頑張ってきた。先生に、先輩に、友達に、どうしたらいいのか相談したこともある。その試みを通して、努力すれば必ずうまくなるなんてことを、もう何回聞いただろう。完全に分かった。それは嘘だ。努力したって全然上達しないことだってある。でも最初からそう言ってしまったら、よほどストイックな人じゃない限り、誰も頑張ることをしなくなってしまう。だから僕たちを教え導く役目の人は、何はともあれ努力しなさいというわけだ。まるで、今の僕は努力していないのだと言わんばかりに。精一杯努力しているか否かは、誰が決めるのだろう。誰から見て「精一杯」なのだろう。僕は自分の限界がどこかなんて知らない。他人がそれを知っているとも思えない。結局、自分も他人も等しく「努力した」という感覚を手に入れるためには、成功しないとダメなんだ。成功したなら十分努力した。失敗したなら努力が足りない。やる気が足りない。必死さが足りない。成功するまで努力しろ、つまりそれは永遠に成功しないなら永遠に努力し続けろってことだろうか。うんざりだ。
それでも僕は重いペダルをこぐ。向かい風に抗って、自分の置かれている状況にできる限りの抵抗を示す。そんな自分の姿を格好いいとは思わない。見苦しいなあと思う。やめてしまえば楽なのに、何らかの意地か、ふがいなさか、そうした言葉にできないしょうもない感情が邪魔をする。頭と心が乖離したこの感覚に、ただ気持ち悪さを覚えている。
一層強く風が吹く。僕の真正面から風が吹き付ける。まるで人が話すかのように、抑揚をつけ、間を取り、僕の耳殻のふちで高低のリズムを刻む。考えてみれば、言葉も風も、空気の流れであることに変わりはない。呼び方が違うだけだ。僕は風の声を聞いている。その示すところの意味を感じている。
『行くな。その先には、何もない』
たしかに、そう聞こえた。気温三十五度以上の猛暑日だというのに、身震いを誘うような恐れを感じた。誰の声だろう。神様の声だったらいいなあと思う。そうだ。この風神だとかお天道様だとかがそう言っているんだったら、やめてもいいんじゃないかな。そんな考えが浮かんだ。我ながら都合がいいなと思う。毎日神様に祈りをささげているわけじゃないし、お経も唱えなければ礼拝にも行かない。それなのにこういうときは神様仏様って。でも神様なんてそんなものかもしれない。少なくても日本じゃそうだ。願いを聞いてもらいたいときは神社に行き、死んだ人の供養をするときは仏様を拝み、キリストの誕生日にかこつけてプレゼントをもらう。都合がいい時だけ頼りにする。みんなやってることだ。
「その先には何もない」というのが誰の言葉であれ、それはその通りなんだろう。たまには幸運が重なって成功することもあるけれど、僕はたとえ百回褒められていても、たった一回けなされれば幸福感が全部吹っ飛ぶタイプだ。そうやって、努力したことに対する精神的な実りを実感できないままに、得意でも、好きでもないことを嫌々やっているのが今。それは時間の無駄、エネルギーの無駄、金の無駄、人生の無駄だ。本当は分かっていた。でもわざと目を背けていた。それがどれだけバカなことかを、この向かい風は教えてくれている。
頑張ったけど、もう無理だ。敵わない。降参するから、許してほしい。もう楽になってもいいじゃないか。平日、学校に行って勉強と部活をやったら日曜日は休みであるように(といっても、日曜も部活があることは多かったのだけれど)、人生に山あり谷ありというのなら、ずっと辛いのはおかしいじゃないか。楽をしたい。追い風に乗りたい。だったら話は簡単だ。引き返せばいい。今まで来たのと正反対の道を行けばいい。ただそれだけで、僕の人生はずっとスムーズにいく。追い風に乗れる。僕がブレーキを引くと、すぐに自転車は動きを止めた。向かい風の中では、止まることの方が進むことよりずっとたやすい。そんなことに、今気づく。前輪を持ち上げて方向転換する。何も困難なことはない。こんなに簡単にできることを、どうして今までやらなかったのだろう。僕は、改めて右足をペダルに乗せて、思い切りこぎ出した。嫌なものに侵食されることのない、きれいな未来に向かって。
「……あれ」
思わず出た声が、疾風にさらわれて後方へ流れていった。ありえない。方向を百八十度変えたのに、依然として風は向かい風だった。
そこで僕は気が付いた。家に帰っても、こんなに早い時間ならまだ親がいるじゃないか。今帰ったら、部活に行くのを嫌がって帰ってきたことくらい分かってしまう。そう思い当たると、今からでも後ろめたさが襲ってくる気がした。僕はまたブレーキをかけた。こっちに行っても、向かい風なんだ。追い風には乗れない。
僕はまた方向を変えることにした。自転車を手で押して、道が十字に交わる、辻となっているところまで行く。左に九十度曲がり、細いあぜ道に入る。ペダルにまたがってぐいと漕ぎ出すけれど、やはり、向かい風。この道を行っても、楽はできない。どこに行けばいいのだろう。僕はどの道を行けば、自分の気持ちに折り合いをつけて、うまく生きていけるのだろう。分からなかった。手あたり次第になっていた。自転車のチェーンから嫌な金属音がしている。僕が再びブレーキをかけて止まると同時に、僕の右半身を突風が打った。そのせいでハンドルを思いきり左に切ってしまうと、バランスを崩して、僕は自転車とともに稲田の中へ倒れこんだ。この時期、水は抜いてあったのがせめてもの救いか。しかし稲の葉には鋸のようなギザギザがあるから、切り傷がいくつかできたかもしれない。僕は立ち上がる気力もなく、その代わりに仰向けになった。風に揺れる稲葉に縁取られた空を眺める。こうして見ると稲は確かに一方向に煽られていて、雲だって決まった方向へ流れていくのに。どうして僕が進むときだけ向かい風なんだろう。ふざけていやがる。どうして僕の邪魔をする。どうして行きたい方向に行くのが、こんなにも辛いことなんだ。
『やあ、や、人間だ、人間』
唐突に聞こえたのは、さっきのお天道様の声か。いや違う、一面に広がる稲たちのざわめきか。なんにせよ、それは声だ。暑さで脳みそが沸騰してるんじゃないかなあと、割と冷静な頭で考える。
『うらやましいことだなあ、おい』
なにがだよ。どっちへ行っても向かい風だぞ。あんたらみたいに止まってる方がまだマシじゃないか。自分の進行方向に対して「向かい風」「追い風」って言うんだろう。どこにも進んでないなら向かい風も何もないんだよ、分かったか――
『だからそれはあ、あなた様が、自分の進みたい方向に行けるってことじゃないか、まったく、うらやましいったら』
急にせわしく騒ぎ始めた稲たちに息をのんだ。まるで、地面に下ろした根を引きちぎってでも、意のままに歩いていきたいとでもいうように、懸命に。それは叶わないけれど、ざわめき続ける。応援で使うボンボンを振ったような、しかしそれよりもはるかに力強い音を、僕は聴いていた。
人間は、自分の進みたい方向に進むことができる。だからこそだ。自分の進みたい方向に進もうとすると、能動的に何かをしようとすると、空気抵抗が生じる。向かい風を感じる。きっと、それは当然で、逃れられないことなのかもしれない。
ちょっとテニスを頑張れば上手くなれるなんて考えは甘かった。部活を辞めれば、何のしがらみもなしに楽になれるという考えも甘かった。このまま部活を続ければ、今まで通り、上達しない自分にむなしさを感じるだろう。部活をやめれば、親や、先生や、テニス部の友達は幻滅するだろう。
「どの道が楽か」なんていう基準で選んでいたから、決められなかった。どの道も楽じゃない。どの道を選んでも苦悩はある。だったら後の判断は、自分自身の、それも今ここにいる自分の気持ちだけが頼りだ。気の向くままに行く。未来に対する様々な不安や期待は、頭から消す。利害得失にとらわれていた思考を切り捨てる。
僕は立ち上がった。倒れた自転車を起こし、あぜ道の辻まで転がして戻る。
そして僕は、家の方向に前輪を向けた。
* * *
現在に意識を戻した時、僕はその辻でずっと立ち尽くしていた。夏の夕方は遅いので、まだ暗くはない。けれども、どうみても雨を降らせる類の灰色がかった雲が、頭上にまで広がり始めていた。
二年経って、僕は引きこもりになった。部活をやめてから友達はいなくなった。卒業アルバムは一回だけ開いて、どこにしまったのかは覚えていない。高校はそれなりにいいところに入ったけれど、やっぱり友達はいなかった。家からの通学時間はますます長くなって、行く意味と、払う交通費、時間、気力の釣り合いが取れない気がして、通うのをやめた。登校拒否、不登校。この状態を指す言葉はいろいろあるが、ともかく、在学はしているけれど学校に行っていないという状態になった。思い返してみれば単純な経緯だけれど、今までに何回、同級生に後ろ指をさされ、先生や親に気遣われ、叱責されたのか、もはや分からなくなっていた。
水滴が頭に落ちた。夕立が降ってきたのだ。風も吹いているらしい。あたり一面で、稲の大群が狂ったように体を振り乱しているのを見て、初めて気づく。雨で視界はぼやけて、頭から伝い落ちた雨粒が目に入りそうになるので、僕は少しうつむいた。僕は初めて雨というものに遭遇したような心地がした。ずっと家の中にいたので、実感としての雨を忘れてしまっていた。だから世間の人々がどうして雨を厭うのかも、よく分からなくなっていた。僕はその場を離れる必要性をあまり感じなかった。
あの時、家ではなく学校に向かい、何事もなかったように部活をして、その後一年間耐え続けたとしたら、自分はどうなっていただろう。それはそれで得るものがあったかもしれない。もう少し友達がいたかもしれない。しかし、今の自分には想像もつかないような苦悩も、あるいはその芽となる何らかのほころびも、ほぼ確実に抱えていただろう。意味のないことなんだ。自分には別の人生があったかもしれないなんて考えるのは。一年間耐えればなんて簡単に仮定するけれど、あの時は部活の一回一回がとても長く思えて、「一年間」なんて永遠に終わらない気がしていた。未来のことを考えてもキリがないように思えたから、本当はその時の自分の苦しさしか頭になかった。
それならば、今の自分がありのままであることの方が重要なんじゃないのか。引きこもりの人生は不幸せで、人並みに勉強オア労働をしていれば幸せか。でも万人にとってそうじゃないだろう。引きこもり生活だって、いざやってみればそれなりに快適で、それなりに劣悪だ。他の生活を手に入れたとしても、結局それは同じことなんじゃないだろうか。今なら、開き直るのではなく、認められる――この毎日が、僕の人生だということを。
部活帰りだろうか、ウインドブレーカーを着て自転車に乗った中学生が、僕を猛スピードで追い抜いていった。不合理なものだなあと思う。雨の中で走ろうと歩こうと、濡れる量は変わらないってことを知らないんだろうか。
今、雨は確かに横殴りで、稲も相変わらず波打っているだろう。それでも僕にとっては、向かい風も何もなかった。凪。風力ゼロ。無風だった。ただ、雨に濡れて皮膚にまとわりついてくるスウェットが不快で、それだけが僕の確かな感覚だった。そのまま何分か、あるいは何十分かそうしているうちにくしゃみが出たので、家に戻った。
そうしてすっかり濡れ鼠となったせいなのか、僕はその後数日に渡りひどい夏風邪に冒されて、大いに苦しむこととなった。僕はまた、あの時の向かい風の強さと、重いペダルの感触を思い出してしまった。しかしそれで、生きている心地を少し取り戻せたような気もした。
(了)