仲良きことは美しきかな


 「ちょっと話したいことあるんだけど、いい?」
 帰りのホームルームが終わってすぐにそう言ってきた彼女の顔は、いつになく真剣だったように思う。
 放課後。私は友人の菜月に連れられて、物置となっている未使用教室に来た。わざわざこの場所と時間を選んだということは、あまり大勢に聞かれたくない話なのかもしれない。
 秋も深まってきて、日が短くなった。朱色がかった日の光が教室に鋭く差し込んでくる。隅にいくつも積まれている木製の机や椅子の茶色が際立って見えた。二階にはもう生徒は残っていないのだろうか、しんと静まった中で、私たち二人。くせ毛でひょろ長い体型の制服姿は私。紺に白のラインが入ったウインドブレーカーを着て、校内で流行のポニーテールの子が菜月。クラスも部活も別で、全く雰囲気の違う私たちだけれど、相性がいいのでよく話はする。しかし今は、私たちの間にいつもと少し違った空気が流れていた。
「それでね、由香、これさ……」
 菜月はそう切り出して、後ろ手に持っていた一封の封筒を見せた。
「豊崎くんに、渡してほしいんだ」
 唐突に出されたその名前に驚いて、私はすぐに聞き返した。
「豊崎って、同じ学年の? 豊崎圭祐?」
「そう。由香、同じ部活でしょ。部活終わった後でいいから、お願いしていい?」
 目の前の封筒の中身が事務的なプリントの類ではないのは、菜月の様子を見れば明らかだった。瞳が不安そうに揺れて、頬が緊張のためか上気している。私が男だったらドキッとさせられるような、女の子らしい表情。それで、私は彼女の事情を理解した。そういうことだ。今の時代、手紙で想いを伝えるなどということは古臭いのかもしれないけれど、少なくとも私の通う学校にはまだ恋文の文化が生きていた。説明を求めるなんて野暮な真似はせず、封筒を受け取る。
 ただ、疑問が一つ残っていたので尋ねた。
「でも、どうして私なの? 美術部の人なら、五組にもいるんじゃないの」
 菜月は、自分のクラス――五組の美術部員には頼まずに、私のいる一組まではるばるやって来た。校舎の端から端まで横断してきたのだ。その理由が、よく分からない。
 菜月は私から視線を外してうつむき加減になり、落ち着かない様子で足の位置を変える。分かりやすい、恥じらいの仕草。不自然なくらいに間を置いてから、菜月は口を開いた。
「私と由香、昔から、一番の『仲良し』でしょ?」
 仲良し。
 その言葉を聞いた瞬間、私は全身の筋肉が委縮するのを感じた。
「――あ」
 指先から、菜月の手紙が滑り落ちてしまっていた。私はあわててそれを拾う。わずか数秒の出来事。彼女は特に気にした風でもなくて、ほっとする。
 菜月は、今度は私と目を合わせて言った。
「こういうのって、一番仲のいい友達に頼むものだと思うから」
 こうして彼女の真剣な眼差しを浴びつつ、こんな台詞を言われたら、普段の私なら気恥ずかしくなるはずだった。しかし今は違った。頭の中から、すーっと熱が抜けていくような感覚があった。
「確かに、そうかもね」
 私は無理やり笑顔を作ったけれど、口角を少し吊り上げすぎたかもしれない。苦笑いになっていないか、気が気でなかった。
 菜月と別れて、私は自分の教室にカバンを取りに戻った。菜月の手紙をしまう前に、机の上に置いてよく観察してみた。手のひらくらいの大きさ。白と暖色系が基調で、花のシルエットがちょこちょこと咲く控えめなデザイン。ポップすぎない。ふざけてない、本気。それを私が任された。どうして私は、よりにもよって彼女の目の前でこれを落としてしまったのか。とんでもなく恥ずかしい台詞を言うなあと驚愕したわけではなかった(少しばかりそれもあったけれど)。ただ、彼女が言った「仲良し」という言葉の意味が一概には決められないものだから、聞いたときに少し混乱し、身構えてしまうだけなのだ。
 私はいつも使っているファイルにその封筒を慎重に挟み、カバンに入れた。これから、この手紙が豊崎の手に渡るまで、絶対に汚したり折り曲げたりできないと思った。私を信頼してくれた菜月を不安にさせるようなことは、してはならない。
 ――一番の『仲良し』でしょ?
 菜月の言葉を反芻する。その通り、私と菜月は仲良しだ。それも、彼女は私に「仲良し」の意味を教えてくれた最初の人なのだ。
 私と菜月が通っていた小学校は、六年間クラスが同じだった。というのも生徒の数が少ないからで、全校で二百人にも届かず、三十人を超えるクラスはなかった。町の中心から離れた私の住む地域では毎年そんなものだから、特殊な環境だとは思わなかった。小学校では、当然、同学年の生徒は全員がクラス全員のことを把握していた。名前を知らない人がクラスにいるだとか、顔と名前が一致しないだとかいうことは、ありえなかった。全員が全員と相性が抜群、というわけではないけれど(当然だ。みんな一人一人違うんだから)、よく遊ぶ、よく話す同士でグループがあった。そして、私と菜月は同じグループにいた。毎週木曜日、授業が一時間少ない日が、菜月と遊ぶ日だった。家に着いて着替えて、十五分足らずで彼女の家に向かう。時には、男子と一緒になって田んぼや野原に繰り出すこともあった。
 きっと子供は、相手と一緒に遊ぶことで相手のことを理解していくのだと思う。協力したり、競い合ったり。似たようなことを、家庭科の先生が言っていたような気もする。そうして六年間も一緒にいれば、相手がどんな人間かということが、なんとなく感じられるようになってくる。はっきり分かるわけじゃないけれど、こう言ったら相手はこう返してくるだろう、こういうことをしたら相手はこう反応するだろう、そういう想像もできるようになってくる。目の見えない人が、視力に代わるほど鋭敏な聴覚を長年かけて手に入れるように、ずっと同じ距離感でいるという一種の制限が、相手との繊細な理解を作り上げた。そんなわたしと菜月の様子を見ていた、私の親や、菜月の母、他の友人たちは口々にこう言った。「本当、由香は菜月と仲良しだね」と。具体的に説明はできないけれど、今の自分と菜月のような状態が「仲良し」なのだと知った。
 そろそろ部活へ行かないと。
 日が短いから、部活動終了の時間も早くなる。その上、美術部は他の部よりも少し早く終わる。時計を見ると、あと三十分ほどで活動終了の時刻だった。
 私は美術室のある東校舎に向かった。渡り廊下を歩く。右に視線をずらせば、金網越しに、コートで試合中のテニス部の姿が見える。ボールを打つ小気味よい音の合間に、知っている声がいくつか聞こえた。
 私は、中学へ上がって女子ソフトテニス部に入部した。菜月含む、小学校の友達の多くがそうすると言っていたから。テニス部は運動部の中でも人気のある方で、他の地域の小学校出身の人も多かった。一概に言うのもどうかと思うけれど、他の地域、特に町の中心部にある学校からきた人たちは、チャラチャラしていた。見た目もそうだが、言動も私の小学校出身の友達とは違っていた。入学した当時は、大きな隔たりを感じたものだった。でも、彼女たちは決して退屈な人たちではなかった。テレビのバラエティ番組やお笑いのコントのようなノリがあって、一緒に遊ぶと楽しかった。楽しいことは好き。だから一緒につるんでいた。これからの三年間でもっと仲良くなれたらいい、小学校の同級生や菜月とのような関係を築いていけたらいい、そう思っていた。
 美術室に着くと、すでに部員たちは各々の世界に入っていた。遅れるとは伝えてあったのでおとがめはない。というより、当の二年生部長、豊崎圭祐も集中していてこちらを見ていなかった。今週の活動はデッサンだ。紙と鉛筆をもらってきて、窓際の一番後ろの席――いつもの位置に座る。
 この部活は、良くも悪くも平穏だった。それは、明るさと活発さに何よりも惹きつけられる中学生という時期にわざわざ絵を描いて過ごそうというのだから、おとなしめの人が多いのは当然とも言えるけれど。あるいは、早く下校できることを入部の理由にした人も多いはずだ。終了時刻が近づくと、絵が途中でも止めて帰る人が多いから。でも、そうした絵に対する思いの温度差や、絵の上手下手でいざこざが起きたことはない。だから平穏。あんまり他人に興味ない人たちが集まってるのかな、とも思う。よく言えば個人主義、悪く言えばまとまりがない。テニス部とはまさに正反対だ。
 あまり絵を描きたいような気分じゃなかった。さっきから、やたらとテニス部に所属していたころの記憶がちらつく。私はぐっと目を閉じたけれど、浮かぶのはやっぱり昔のことだった。部活の中で起こった、ある事件。
 部に、愛美という同学年の子がいた。彼女は私や菜月と同じ小学校の出身だから、まあ、仲良しと言えると思う。昔から口が達者で、調子のいいことやみんなをまとめるような言葉をよく使い、得意になっていた女の子だった。彼女は、いつも彼女自身がみんなのリーダーであると信じている節があった。私含め、愛美と同じ小学校の子たちは、その目立ちたがりで仕切りたがりの彼女のたちを知っていたから、苦笑しつつも言うとおりにしたり、軽くあしらって笑い話の一つにしたりといった対応ができた。そこに悪意はなく、相手を傷つけようという思いはなく、「愛美って、昔からこういう子だったな。しょうがないな」という理解だけがある。そういう意味で、仲良し。
 でも、中学に入ればそうはいかなかった。
 愛美は、たしかにリーダーの素質はあったろう。声はよく通るし、何といっても物怖じしない。反対意見は踏み倒して、わが道を行くタイプ。六年間の付き合いだから、大体合っているはず。しかし彼女には一つ足りなかった。部活の中でもワースト一、二を争うほど、彼女はテニスが下手だったのだ。他の部はどうか知らないが、少なくともあの部活は、テニスの強さが権威の強さなのだと思う。だから、弱い愛美の言うことを聞く人は、ほとんどいなかった。彼女はそれに気がついていただろうか。相変わらず彼女は小学校のときのように、コートの除草や、練習の準備などの場面で声を張り上げて、リーダーたらんとしていた。そしていつしか愛美を「下手くそなのに偉そう」「ウザい」と陰で貶す部員が現れても、私は彼女たちを責められない。私も陰口に付き合っていたからだ。そのくせ、「私は愛美のことを本当は理解しているから、悪意があるわけじゃないんだ」という理屈を免罪符にしていたんだから、私は本当に汚い。さらに私の免罪符はもう一枚あった。「みんなやってるから」というのを理由にすれば、少なくともその「みんな」に含まれる人は私を責める資格がない。つまり、罪悪感はずいぶんと軽減されるわけだ。学校での集団生活七年目となれば、いつの間にか成立している理屈だった。
 愛美は、陰口を叩かれるか、ほぼ無視されるようになった。すると彼女はたびたび部活を休むようになった。小学校では、誰かを無視するという行為自体が存在しなかったから、彼女にとって初めての経験だったのだろう。それは愛美のような人間にとって、最も辛いいじめの手段だったはずだ。休みが増えれば、ますます周りの上達についていけなくなる。彼女は多分、悪循環に陥っていた。そのとき私は、新しく知り合った人たちと仲良くなるため冗談を飛ばしあっていたから、詳しくは分からなかったが。菜月も、合いそうな相手を見つけてうまくやっているようだった。テニス部に何も問題はないだろうと、当時の私は本気で思っていた。
 冬休みが近づいたころ。顧問の先生と二年生、三年生が他校へ試合に出ていて、一年生は自主練という珍しい日があった。この日、私はつるんでいたグループの女子たちに呼ばれた。英里華という飛びぬけて背の高い子が、彼女たちの中心だった。
「ちょっと、アイツに活入れてやろうと思うんだけど」
 アイツというのは、もちろん愛美のこと。なんだかんだ言っても部活には真剣で実力もあった私のグループの子たちだから、愛美を少しばかり挑発して、負けず嫌いな彼女のやる気に火をつけるとか、そういうことなのかな、なんて。頭の中がお花畑って言ったらいいのか、素敵なファンタジーだ。今思い返すとありえない。テニス部の中に年上の人間がいない日だった時点で、予想できそうなものなのに。
 私は彼女たちについていった。このとき、内心では私も何とか愛美に部活を頑張らせたいと思っていたから、彼女たちと思いが通じたようでうれしかった。私たちが他の部員に声をかけて回ると、部のほとんど全員が集まった。やっぱりみんな仲良しなんだなと暢気に考えていたのが当時の私。それは間違ってはいない。テニス部は仲が良かった。何より、共にいる時間が長かったのが大きい。部活の時間は運動部の中でも一、二を争う多さで、常に部員の誰かと顔を合わせているような状態だった。ひょっとしたら、親よりも会っている時間が長かったかもしれない。声出しから、練習、試合、休憩時間。他校との練習試合、大会会場への道中、応援まで、一つ一つが部員同士の共同作業だった。それも、みんな仲良しになろうという見えない意志が働いているようで、私も今思うと不自然なくらいに騒ぎ合っていた気がする。
 ただ、テニス部にあった「仲良し」は、それだけではなかった。
 私はずっとつむっていた目を開いた。デッサンのために持ってきた紙が目に入る。無意識的に、私の手は鮮烈に残っているあの日のイメージを描き出していた。
 彼女は体育館の壁を背にして立っていた。私たちは彼女から三、四歩離れて半円を描くように彼女を囲んでいた。その中に私も、菜月もいた。さながら私たちは、仲良しという言葉に従って組まれた鉄格子。一人一人が、彼女を断罪するための監獄を作った。彼女には逃げ場がなかった。その正面に英里華が立ち、言葉のナイフを次々に投げつける。部活の規律を乱すなという教師じみた論から、テニスの下手なことを揶揄、果ては容姿の中傷。彼女は生来の負けん気で反撃にかかるも、じわじわと胸を切り裂かれているのが見て取れた。
 鉛筆を寝かせて持ち、ひたすら直線、直線、直線。その鋭利さは私の心までぞっとさせる。やがて、愛美に襲いかかるナイフの雨には白いソフトテニスボールが混ざった。至近距離でボールが当たると相当に痛い。私たち鉄格子は流れ弾を恐れて少し後退した。私はこの辺りから愛美が可哀想に思えてきた。でも結局ただ見ているだけだった。それこそ本当に体が鉄と化したように、息一つも自分の自由にならなかった。
 ボールを打つ音の合間を縫ってどこからか聞こえてくる渇いた嘲笑。そのイメージは、細かく不規則に波打った耳障りな音波。私自身よく分かっていない、意味があるのかわからないような線を描いていく。
 周りの人間の顔はみな同じだった。動物のショーでも見ているかのような面白がった風をしているが、眼だけは異様なほど真剣に光り輝いていた。目の前で虐げられる愛美を見て、こうはなるまい、と決意を固めているようにも見えた。誰もが被害者になることを想定できた。みんなが保身のために結束した。それは普段の和気藹々とした雰囲気との落差が大きすぎた。私はこの日、仲良しという言葉の意味を見失った。今に至るまで、それははっきりしないままだ。
 その後愛美は泣き出してしまい、私たちが包囲を解くとすぐに家に帰った。その日以来、彼女は完全に部活に来なくなり、まもなく退部した。彼女は誰にも事件のことを口外しなかったので、後々問題にはならなかった。
 それ以降、私はテニス部の人たちと「仲良く」できなくなってしまった。以前と変わらずどうでもいい話で笑い合っているときも、いつも気分は一人ぼっちだった。「仲良し」を警戒するようになったのだ。そんな中でも、やはり菜月は私の理解者だった。私が胸の内を洗いざらい吐き出すと、「無理に仲良くしなくてもいいと思う」と言った。同感だ。菜月と英里華たちとでは、積み重ねてきた年月が違うのだ。どうしても、それぞれとの「仲良し」は別物になってしまうのだ。私は決心した。入部して約一年となるころ、今年の三月中旬に私は退部届を提出した。テニスの実力の方も、私はレギュラーにあと一歩及ばない程度。それほどでもなかった。特に引き止める人もなく、説明するときはどうでもいいような理由、私自身覚えていないような理由でごまかした。それで、テニス部所属の門井由香は消えた。
 母は、その後私が二年生になって美術部に入るまで、気持ち悪いくらい優しかった。この学校では、部活に入っていないのはほとんど不良とみなされていたから、私も不良娘となることを恐れたのかもしれない。でもお母さん、それは無駄な心配だったよ。私は不良になりきるには勇気と仲間が足りなかったから。
 部活をやめた後、私は暇を持て余していた。いっそここは例に乗っ取って、タバコを吸ってみようかと思うこともあった。しかし無理だった。ライターはカバンに入れて携帯していたが、肝心のタバコは簡単に手に入りそうになかった。それなので、あまり執着せずにあきらめた。今になって思えば、私は結局、決まりを破るのが怖かったのかもしれない。社会と私をつなぐルールを自分から切ってしまったら、私はテニス部だけでなく、学校や家庭からもはぐれてしまう気がした。今でも私は無法が怖い。ある決まり事は、自分を繋ぎ止めておく錨みたいなものなのだと思う。
 私は手を止めて、考えるのもやめる。いつの間にか机に張り付くようにしていた体を起こすと、どっと疲れを感じた。
「お? 抽象画か」
 背後から声がかかった。振り向くと、いつの間にそこにいたのだろう、豊崎が私の机の上を覗き込んでいた。くりくりした目、坊主頭と言うには少しだけ長い髪の毛。多分イケメンという分類には入らないと思うが、唯一、彼の直毛だけは羨ましい。私のようなくせ毛は、自分の心が曲がっていることを示しているようで、本当に気に入らない。私は前に向き直り、改めて目の前の紙を見た。めちゃくちゃだった。人のような形の黒いシルエットが中心に一つ。それに重ねて、力を入れすぎて黒鉛が飛び散る勢いの直線と、ランダムな軌跡を描く気の抜けた曲線が何本か。余白は、水平と垂直、直交する無数の直線で埋め尽くされている。文字らしきものもあったが、線が重なって読めなくなっていた。おおよそまともな人間の描く絵じゃない。というより、何かを表現しようとする意思は感じられるけれど、これはそもそも絵なんだろうか。描いた本人である私も、何がしたかったのかよく分からないが、何かとんでもないものを描いてしまった気がする。おぞましい。こんな概念が私の中にあることを認めたくない。私は今すぐにでもその絵を破り捨ててしまいたい衝動に駆られたが、豊崎が見ている手前、我慢した。
「相変わらずワイルドな線使いしてるなあ。これ、何を目指して書いたの?」
 いつ何時もフランクな口調を崩さない彼は、馬鹿にする風でもなくさりげなく聞いてきた。何を目指したのかなんて、そんなの私が聞きたいよ。
「えっと、なんかむしゃくしゃしてて、テキトーに描いてたらこうなっただけだから」
 私は苦し紛れにそう答えるしかなかった。
「こういうのも描くんだな、門井は」
 何が彼をそうさせるのか、豊崎は私の描いた絵をまじまじと観察し続けた。ちょっと本当にやめて。そんなに見ないでほしい。背筋が寒いような耳たぶが熱いような、不快な恥ずかしさを感じて、彼を突き飛ばしてしまいたくなった。私は周りに目を向けて、気を紛らわせる。すでに他の部員の姿は消えていた。壁にかかっている時計に目を移すと、美術部の活動終了の時間から二十分ほど経っていた。視線に気づいた彼は私から離れて、美術室の鍵を掲げた。
「もう時間過ぎてるよ。門井も、それ描き終わったなら今日は終わりにしよう。鍵閉めるから」
 ようやく絵から興味を移した彼に安堵し、私はそそくさと絵をカバンにしまった。そのとき、私はファイルに入れておいた菜月の手紙が目に入った。すっかり意識から抜け落ちていたので焦ったが、そのままにしてカバンを閉めた。彼はこれから鍵を返しに行くから、ひとまず手紙は後回しにするしかない。
 豊崎と別れた後、先に校門に出て彼を待った。もう日は沈んでしまったが、西の空には、名残を惜しむように朱色が滲んでいる。東に行くほど青みが加わり、藍色へと至る見事なグラデーションを成していた。
 豊崎が昇降口から出てくるのが見えた。じっと見てると急かしてるみたいに思われるかな。しかし、彼は私の姿を認めてもマイペースな歩調を崩さなかった。私がどうしてここで待っていたかは気にしていない様子だった。彼が私のもとに来ると、開口一番、尋ねてきた。
「ところでさ、さっきの絵の題名ってなに?」
 まったく不意な質問だった。題名なんて考えてもいなかった。しかし私はあのとき、ただ一つの言葉について考えながら、探りながら、描いた。私は答えを持っていた。
「『仲良し』かな」
 豊崎は声を出さなかったが、表情があからさまに変わった。顔に「意味が分からない」って書いてあるみたいだった。ああ、混乱させてしまった。彼は私の事情なんて知らない。思い返せば、彼は私に部活をやめた経緯を聞いてきたことがない。割とプライバシーを尊重する人なのだろうか。それとも、そこまで私に興味がないだけか。どちらにせよ、私も話す必要はないと感じた。彼の前では、人付き合いに悩みなんて感じていないふりをしたかった。ただの、居残りの多い美術部の女子でいたかった。だから、私はごまかした。
「うそ。まだ題名はつけてないよ」
 テキトーに描いたやつだからね、と付け加えたが、豊崎はあまり納得した様子ではなかった。
「すごい絵だったな。怖い顔して何描いてるのかと思ったら、デッサンじゃなくてあのおっかない絵だろ。ビビったよ」
 彼にもあの恐ろしさは分かったようだ。でもね豊崎、あれ、私の中にあるものなんだよ。もしそんな台詞を口にしたら、彼はきっとまた不思議な顔をするだろう。口が裂けても言うつもりはなかったが。
「でも、なんかすごかった。門井は絵の才能あるよ」
 彼は、いつもそう言う。部活を辞めたあとの私を美術部に誘ったときもそうだった。「美術の時間で描いた門井の絵、前からすごいと思ってたんだ」って。私は自分の絵が上手いなんて露ほどにも思ってなかったから、意外だったけれど。彼の言葉には下心が感じられなくて、ただ褒めたいから褒めてくれているのだろうと思えた。私が美術部に入ろうと決めたのも、そんな彼に少し興味が湧いたからかもしれない。
 豊崎の、絵についての批評もひと段落して、今こそ菜月の手紙を渡すタイミングだろう。なんて切り出そうか。渡すものがあるんだけど、なんて言ったらまるで私が渡すみたいだ。まず菜月の存在に触れておいた方がいいかもしれない。
「話変わるけど、五組にさ、浦辺菜月っているでしょ?」
 彼は脈絡のない私の言葉にも慌てることはない。やっぱり言葉のキャッチボールに慣れているんだろう。彼は学年の中でも、話上手なお調子者として有名だから。
「いるなあ。テニス部の。あんまり話さないけどな」
 菜月と豊崎は同じクラスだ。しかし彼の口ぶりからすると、あまり接点はないみたいだ。だから同じ部活の私に頼んだのだろうか。
 あとは実際に渡せば終わりなのだが、なかなか踏ん切りがつかない。私が手紙を書いたわけじゃないのに、妙に恥ずかしかった。言葉を返さない私を見て、彼はどうしたのかと聞いた。私はそっぽを向いて、彼に顔を見せないようにしてからカバンを開け、ファイルから手紙を取り出して、一つ咳払いをしてから言った。
「手紙、これ、渡してって言われた。菜月から」
 手紙を持った右手を差し出した。豊崎は、それを凝視した。そのまま五秒経った。十秒経った。彼はどうして受け取らないのだろう。私、何か失敗してる? 彼は突然、私に視線を移した。表情には、明らかな疑念が見て取れた。
「……あのさ、門井って、浦辺とどんな感じなの?」
 豊崎が尋ねた。怪訝そうな声だった。手紙の方に関心はないのだろうか。どうして私のほうを見るんだろう。
「どんな感じって?」
 彼の意図がよく分からなくて、聞き返した。豊崎は少しもどかしげに、急いた声でなお尋ねる。
「だからさ、浦辺との関係を一言で言うなら、何?」
 今度は、何を聞いているか分かった。
「『仲良し』……だと思う」
 手紙を渡してと頼まれたとき、菜月はそう言った。であれば、私たちはきっとそうに違いないのだ。それほど間も空けずに答えられたことに安心し、一瞬遅れてその確信が揺らいだ。あの絵の題名と、同じ? 意味が違う? どう違うんだろう。分からない。
「こういうのって、余計なことなのかもしんないけどさ、女子の人間関係とかよくわかんないけどさ、ちょっと納得いかないから言うんだけど」
 豊崎は普通、そうやってもったいをつけた言い方はしない。こんなに不機嫌そうに話す彼は、見たことがない。嫌な予感がした。でも私は、次に彼が言う台詞をすでに知っているような気もした。
「あいつ、いつも女テニのやつらと門井の悪口言って笑ってる」
 それは衝撃的な事実のはずだった。しかし私は不思議とショックを受けなかった。心拍数が変化しなかった。「やっぱりそんなものだったね」とでも言っているような淡々とした鼓動が、胸の内に響いていた。私が黙っていると、豊崎が言葉を継いだ。
「本当だよ。主に浦辺が門井のことを観察して、女テニのやつらに報告するんだ。自分のクラスでハブられてたとか、先生に怒られてたとか。毎日それを悪口の種にしてるんだよ。べつに敵視してるわけじゃないけど、あいつら、あんなに人の悪口言ってるの聞くとさ、俺のいないところでは俺の悪口も言ってる気がする。だからあんまり関わりたくないんだよ」
 彼は感情を入れて主張した。最初から豊崎の言うことを疑っているわけじゃないのに。依然として私は何も言わなかった。言う必要がなかった。彼の言葉で、すべて納得がいった。
 私は、テニス部での「仲良し」は、あの絵に描かれていたような冷酷な檻だ、醜いものだと割り切っていた。ただ菜月とは、小学校から続く、生糸で結ばれたような仲良しのつもりでいた。でも実際のところ、そうではなかった。両方とも大して変わりはなかった。どうやら、その二つを分けて考えていたことが、私の根本的な思い違いだったらしい。そのせいで、私は右往左往していたらしい。やっと分かった。私の中の「仲良し」についての考え方は、このときようやく統一されたのだった。
 菜月の手紙を制服のポケットに押し込む。私は無言で歩き出して、豊崎の側を通り過ぎた。彼はドラマのワンシーンのように私の腕をつかむこともなければ、呼び止めることもしなかった。もしも、私がもう少し悲しそうな顔をして(あるいは涙を流して)、もう少し速く走り出していたら、彼は引き止めていただろうか。しかし実際そうはならなかった。私はおそらくにやけているはずだし、彼は間の抜けた顔をしてぼけっとこちらを見送っていた。邪魔されなくて好都合だった。私は「仲良し」の正体が分かってとても興奮していたのだ。やっと、答えを見つけた。
 「仲良し」という言葉は、相手との関係に靄をかけるためのフェイントなのだ。言ったもん勝ちのハッタリなのだ。なんだっけ、そうそう、枕詞? その言葉を使う人には最初から思惑があって、「仲良し」とは、それを導くための枕詞なのだ。困ったときに助けてもらいたいとか、気に入らない相手を追い出すのに協力してほしいとか、陰口のターゲットが欲しいとかいうのが実際の意向なのだけれど、それだとちょっと外聞が悪いから、一応、「仲良し」という言葉を前に置いておく。「仲」なんてご立派なものは、初めからなかった。あってないようなものだった。関係に名前がついていたから、私はそこに決まりごとがあるのではないかと錯覚していた。でも実際は何もなかった。何も私を縛り付けるものなんてなかった。難しいことをくよくよ考える必要なんてなかったんだ。ありがとう、みんな。私、やっと分かったよ。自分の思う相手を、したいようにすればよかったんだね。みんなそうしていたのに、私はそれに気がつかなかったわけだ。いや、もしかしたら、一年前に鉄格子になったとき、すでに気づいていたのかもしれないけれど、認めるまではしなかった。頭が心を押さえつけていた。でも、何かきっかけさえあれば、すぐにでも認めることができる状態にあったのだろう。
 私は走った。どんどんペースを上げても、特に苦しくはならなかった。どちらかというとステップでもしたい気分だったが、やり方を忘れていた。家には向かわなかった。この昂ぶりを狭い自室に閉じ込めておくなんて、そんなもったいないことはできない。衝動のおもむくままに行く。この辺りは自分の庭も同然だ。裏道を使えば、信号待ちなんてする必要がない。何も私を遮るものはない。心地よい。私は、住宅が途切れ始める町外れに至った。そこで、昔よく菜月たちと遊びに来ていた公園の一つを見つけた。ここがいい。公園は、幼いころの記憶よりずっと小さかった。私は、菜月は、小学校のみんなは、狭い世界で生きていたんだと思った。そんな狭い世界で、衝突を起こすわけにはいかなかった。いつも同じ面子で逃げ場がないんだから、ずっと後を引く。それが嫌なら、お互いに一緒にいることに慣れるしかなかった。制約があった。それが普通なのだと思っていた。でも、そうじゃなかった。いざこの場所から飛び出してみれば、世界はあまりにも広くて、自由だった。いつまでも狭くて不自由なのは私の視野だよね、なんて内心で呟くと、自然と頬が緩んだ。さっきから、自虐が楽しくてしょうがない。
 さすがにこの時間帯、あたりは無人だ。塗装の剥げかけた滑り台の先に、落ち葉の混じった小さな砂場があった。私はカバンの中から例の絵を取り出した。相変わらず恐ろしさを感じるが、最初に見たときよりは少し親しみが湧いた。
 テニス部では、騒ぎたいから騒ぎ、気に入らないから暴力を用い、暴力を受けたくないから結束する。それらは「仲良し」の裏側にある事実だ。このゴチャゴチャした絵は「仲良し」そのものではない。私はそれをひっくり返した。「仲良し」とはこの虚しい白で、こちらが絵の表側だったわけだ。欲を言えば、これが透明になるか消えてなくなってしまうといい。そうすればこの絵は完全に「仲良し」と同一になるだろう。
 私は一つ思い付きを実行する。絵を砂場の中心に置いて、カバンの奥を探った。教科書やノートが邪魔なので、全部出して砂場の外に積み上げる。底に静かに眠っていたのは、かつてタバコを吸おうと思って入れていた百円ライターだ。ねじを回して着火するタイプ。カバンに入れてはいたけれど、実際にこのタイプのライターを使うのは初めてだった。このタイプは指と火の位置が近くなるし、なんとなく野蛮な印象があって使うのが怖かった。けれども、意を決してねじの部分を回してみると、シュポッ、と軽快な音がして火が灯った。指も熱くないし、案外あっけない。過去の私が、より一層愚かで臆病な人間に思えてきた。
 いったん火を消して、二つ目の思い付きを実行する。私はポケットから菜月の手紙を取り出した。押し込められていたせいで半ばしわくちゃになっていた。今やそれは、神聖不可侵なものには到底見えなかった。ただ、いかにも儚げで、息を吹きかければ霧散してしまうようでもあった。好奇心から、私は手紙の中身を見てみることにした。ためらいや恐れはなかった。封筒を開けると、半分に折られた一枚の便箋が出てくる。私はそれを開いて、目を見張った。便箋には何も書かれていなかった。それどころか罫線も、封筒のような装飾もない。少ししわがついているだけの、ただの白紙。これはどういうことだろう。天文学的な確率で起こるであろう手違いか、それともこれはラブレターなんかじゃなくて、最初から、菜月が豊崎と私に仕掛けたドッキリだったのか。どちらにせよ、笑ってしまう。ちょっと出来すぎているくらいお似合いじゃないか。「一番の仲良し」という言葉を頼りに送り出されたこの手紙の中身が、こんなにも虚しいものだったなんて。本当におかしくてたまらない。私はこらえきれずに吹き出すと、声を上げて笑った。テニス部で騒いだときだって、これほど笑ったことはない。白紙の手紙を「仲良しだから」なんて言って託してきた菜月も、大事そうにして、恥じらいながら豊崎に渡そうとした私も、大した道化だ。ああ可笑しい。抱腹絶倒だよこれ。おばあちゃんになったら、笑い話として孫に話してあげたいね。
 笑いが収まるのを待って、思い付きの最終段階に移る。もはや仲良しという言葉に惑わされる必要はない。本当はそこに何もないのだから。私もしたいようにしていいのだ。みんなやっていることなのだ。「みんなやっている」というのは本当に便利な言葉だ。不安、後ろめたさ、良心の呵責。そういう割り切れなくて気持ち悪い感情を、「みんな」という液が中和してくれる。だから今の私に残っているのはひどく原始的な衝動と、それに身を任せるが故の爽快感だけだった。いい気分。
 私は先の絵の上に菜月の手紙一式を重ねて置き、そっと火をつけた。紙の上に、綺麗な朱色の炎の舌が生えた。こげ茶色の線がみるみるうちに波打って、通った跡を灰にした。風もなく、煙はしとやかに上っていく。嫌な臭いはしなかった。香ばしいような気さえした。まもなく二つは燃え尽きた。ずいぶん体積の減った灰を運動靴の先でつつくと、端からポロポロこぼれた。上から軽く二、三回踏みつけてみると、もう砂と見分けがつかなくなった。消えてなくなった。本来の姿に戻った。スカッとした。テニス部の人たちや、菜月のことが憎かったからではない。「仲良し」を思うたび胸に積もった澱のような懊悩煩悶が、きれいさっぱり消えていたからだった。私は今、真に自由というものを知ったのだ。昔、私が「仲良し」の意味を記憶したときと同じ。言葉の意味と今この瞬間の感覚が同期されて、かつてない、言葉で表せない微妙なニュアンスが脳の片隅の引き出しにそっと収まる。
 おそらく、今の私は自由の女神と同じ表情をしているはず。ライターを持った右手を高く上げて、火を灯す。あれ、左手は腰に当てていただろうか? まあいいか、自由の女神のポーズ。腹の底に残っていた可笑しさがぶり返してきて、私は肩を震わせた。












(了)


2013年6月1日公開


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