Cumulonimbus - nebula


《前作「Cumulonimbus」》
 白泉高校二年の霧原修司は、自殺の意思に感応して、雷が聴こえるという能力を持っていた。
 これを知るのは、彼の世話役である叔父と、幼馴染の十重坂園美だけである。
 五月。修司は、ふとしたことで知り合った同級生の葵嶋彩香が、自殺を企図していることを能力で感じ取る。
 彼は、干渉すべきか葛藤しつつも、間一髪で彼女の自殺を阻止したのだった。

 それから二ヶ月後、七月十五日――。


Scene0: Call


 朝の電話というのは、どうしてこうも人を苛立たせるものなのか。
 時計を見ると、六時過ぎ。起床時間に合わせて鳴り始めた呼び出し音に、意識がはっきりしてくる。
 なぜ叔父さんは電話を取らないのか――その問いの先、叔父さんは昨日から実家に戻っていたことに思い当たる。
 俺は起床し、階段を下りてリビングに向かう。
 部屋に入ると、こもっていた温い空気に出迎えられる。テレビの横の、観葉植物やら置時計やらが並ぶ棚の上で、電話はしつこく鳴り続けていた。
 根気のある奴だと思いつつ、俺は受話器を取った。
「はい、霧原です」
 見覚えのない番号だったので、なるべく声音を整えて告げる。
「……」
 相手が名乗り出るのを待つが、一向に返答はない。
「霧原ですが」
 もう一度言ってみるが、やはり相手は何も言わない。受話器の向こうに意識を集中させると、かすかに息遣いのような音が聞こえる気がした。
「……切りますよ」
 声をいつもの調子に戻して、短く言う。その直後、相手の方から電話は切れた。
 ツーツーという音に苛立ちを感じながら、俺は受話器を置いた。今時、無言電話なんてするやつがいるのかと、少し新鮮でもあったけれど。
 ともあれ、手早く朝食を作り、残りは弁当に配分する。
 天気予報によると、今日は一日中曇り空であるとのこと。それでも気温は大して下がらないのが夏らしい。
 ほどなくして、俺はいつも通りに家を出た。

Scene1:Strange Thunder


「まもなく相生橋、相生橋です」
 アナウンスが流れる。
 京海線の列車内。俺の登校風景は、少しだけ変わった。
 開いたドアに目を向けると、彼女の姿が目に入った。
「おはよ、葵嶋さん」
 声をかける。
 電車に乗るのも、繰り返せば大体の定位置が決まってくる。五月のあの事件以来、待ち合わせこそしないものの、彼女とは毎回乗り合わせて、一緒に通うのが習慣になっていた。
「……お、おはよう」
 葵嶋さんは俯いて答える。声が大きすぎたかと自省して、二人並んで吊り革につかまった。
「嫌な暑さだね、今日は」
「ほんと。明日からやっと休みだね。……私はさっそく部活入ってるけど」
 期末テストが終わり、今日は一学期の終業式だ。
 彼女は、怪我をしたためにテニス部にはしばらく参加できなかったが、それをきっかけに、マネージャーに転向することを決めたと聞いた。
 それから一駅、俺と葵嶋さんは白泉で降り、南口から出る。
「そうだ。今朝、電話の呼び出し音で起きたんだけどさ、」
 取ってみたら、と続けようとすると、彼女に遮られる。
「ごめん! それ、私なの!」
「あ、そうだったんだ」
「いつもこうやって電車で会ってるけど、たまには霧原くんの駅で待ち合わせて行くのはどうかなと思って衝動的にかけちゃって、でもやっぱり思い直して……朝早くから迷惑だったよね、ごめん」
「いや、別に……」
 むしろ、相手が葵嶋さんだと分かっていれば、あんな無愛想にしなかったものを、と後悔していた。
 待ち合わせをして、一緒に登校したい。彼女は、そう思ってくれていたのだ。
 こういう類の関係を持ったことがないから、今の葵嶋さんとの関係を何と形容したらよいのか、未だに分からないが。
 最初は、ふとしたことで知り合った他人同士。彼女の裏の顔に気づいてからは、俺にとって彼女は避けるべき対象になった。そして、あの事件。
 だからといって、俺は葵嶋さんの恩人というわけでもない。確かに俺は彼女の命を救ったことになるが、そもそも、俺が彼女を拒絶することがなければ、あんな大事にはならなかったのだ。
 最初はそれに対する引け目もあって、彼女と共にいることに決めていた。しかし、今はもうその理由だけではない。
「じゃあ、帰りは待ってるよ。葵嶋さんは、部活終わったら来て」
 葵嶋さんといるのは、純粋に楽しい。
 人と関わる時はいつも、共にある雷を恐れていた俺が、彼女とは安心して関わることができている。最近は、雷に脅かされることもめっきり少なくなった。
 彼女の方も、苦労はありながらも、何とか学校にも復帰できたようだ。良くも悪くも、以前よりも素直に、自然に振る舞っているのを感じる。俺たちは、少しずつ良い方向へ向かっているように思えた。
 だからだろうか。
 普段なら聴こえないほどの小さな雷が、パチ、と弾けたことを感じた。
 思わず、足を止める。音源の方向を探るが、くぐもったように聴こえていてよく分からない。
「どうしたの?」
 俺の能力については、彼女には何も話していなかった。
「いや……何でもない」
 そう答えたものの、音は一向に止む気配がない。葵嶋さんは、気遣わしげに俺の顔色を伺っている。
 彼女の、自殺の意志ではないはずだ。湧きかけたその疑念を叩き潰し、注意深く周囲を見回そうとした、その瞬間。
 脳から爪先まで、電撃に貫かれたような衝撃を感じた。
 膝ががくんと折れ、俺はその場にしゃがみ込んでしまう。
 視界が白く塗りつぶされている。聴覚も麻痺している。そんな中で、俺は葵嶋さんの手が背中に触れたのを感じた。
 この雷は、何だ?
 音源が特定出来ない。今までに、こんなことはなかった。
 そう遠い音じゃない。もっと俺の近くの、内側の――
 何故だか、一瞬、今朝の電話が思い出された。
 あの沈黙が、息遣いの音が、何か不吉なものを孕んでいるような気がして。
 ……あれは、葵嶋さんからの電話。
 するとやはり、彼女はまだ……?
 声にならない問いかけを発すと、その疑念が再燃する。
 ――ああ、またか。
 雷は、自分から遠い近いは関係がない。
 雲間から日が差していたとしても、関係がない。
 見知らぬ人間にも、友人にも、家族にも、
 平静に見える自分の周囲に、予告なく落ちるものなんだと、あの時学んだはずだったのに。

Scene2:Thunderstruck


 学校は欠席することにし、通学路を戻る。
 空を覆う黒雲は厚さを増し、辺りはすっかり暗くなっていた。
 母さんが死んだ日も、ちょうどこんな天気だったのを覚えている。
 ちょうど三年前の今頃の時期。途中で夕立ちが降ってきたので、部活が少し早く終わり、俺は走って家に帰っていた。
 当時の俺の家は、中学校から歩いて十分ほどの距離にある一軒家だった。
 俺は、かなり強くなった雨に打たれて走りながら、家に電気がついていないことに気がついた。
 母さんはもう夕食を作り始めているはずだ。そして親父は仕事で忙しく、ほとんど会う事はない。
 雨が瓦を打つ音に混じって、遠雷が聞こえてきていた。
 母さんはどこに行ったのだろうかと思いながら、鍵を回し、玄関を開ける。
 電気をつけると、母さんの靴はちゃんと置いてあった。
「ただいま」
 おかえりの声は返ってこない。
 母さんは寝てしまったのだろうか。俺は、たっぷり水分を含んだ上下のジャージと靴下を脱いで、家に上がった。
 ギシ、と足を着くたび床が鳴る。稲光も見え始め、暗い家の中が時々、不気味に照らされる。
 台所の電気をつける。母さんはいない。いつもは四脚ある椅子が、一脚見当たらなかった。
 居間に入ると、寝室とを隔てている襖が閉まっていた。
 やっぱり寝ているのだろう。俺はそっと襖を開け、寝室に足を踏み入れた。
 その瞬間、家の付近に雷が落ちた。凄まじい閃光と爆音が轟き、薄暗い寝室が一瞬だけ照らし出される。
 俺の網膜に焼き付いた光景は。
 天井から垂れている縄の先、一片の温かみも無い青白い光に照らされて、所々に陰影を落とした女性の姿。
 俺の、母親だった。

「……」
 目を開けると、ベッドの中にいた。
 天井の板の張り方に、どこか見覚えがある。学校の保健室のようだ。
 どこから意識が過去に飛んだのか。定かではないが、雷を聴いてから、自力で動いていないことだけは確かだった。
 体を起こすと、ベッドのバネが軋む。その音を聞いてか、カーテン状の仕切りの間から、葵嶋さんが現れた。
「霧原くん、大丈夫?」
「葵嶋さん……」
 どうして俺はここにいるのか。なんとなく想像はついていたが、聞いてみる。
「霧原くんが急にしゃがみ込んで、動けなくなっちゃったのは覚えてる?」
 俺は頷く。
「だから、学校は休んで帰ろうってことになったよね。でも、霧原くん途中で気を失ったみたいで」
「ああ……」
「学校まで走って、先生呼んできて……突然だったから、私、焦っちゃって。救急車呼ぶとこだった」
「大げさだって」
 病院に担ぎ込まれて、詳しく診断されたらどうなっていたことか。俺の能力が引き起こすものは、身体の医者の範疇ではないのだ。
「保健室の先生は、一時的なものだろうって言ってたけど。こういうこと、よくあるの?」
 今までは、気分こそ悪くなるものの、身体に影響を及ぼすまでに至る事はなかった。
 どう話したものかとしばらく思案していると、続けて訊かれた。
「寝不足だった、とか?」
 やっぱり、彼女に明かす事はできない。
「……多分それだ。そういや、夕べは寝るの遅かったし」
「そうなんだ。よかった、悪い病気とかじゃなくて」
 俺は彼女の顔をまともに見られなかった。
 今、俺に対して最も真摯に接してくれる彼女に、どうして嘘をつかなければならないのだろう。
「もう少ししたら先生が戻ってくるから、今日はもう家に帰って、休んだ方がいいよ」
「そうするよ」
「うん。じゃあまたね」
 そう言って、彼女は去った。
 時計を確認すると、昼休み終了の五分前だった。

* * *

 彼女に勧められた通り、俺は先生が戻って来るとすぐに、早退を申し出た。
 白泉駅で、京海線に乗る。
 俺の家庭は、母さんが死んだ直後に引っ越しをしていた。
 引っ越しといっても、通う中学も、最寄り駅も変わらない程の小規模なものだった。園美とはその以前から親同士の親交があったが、引っ越し後はむしろ家が近くなった。
 もっとも、それから一年して海外で働くことになった親父には、関係のないことだったのだろうが。
 最寄り駅、榊原で降りる。
 駅から今の家までは、それほど遠くない。徒歩で十数分ほどで着ける距離だった。
 白い平板を規則正しく組み合わせたような、近未来的なデザインの自宅が見えてくる。これは親父の趣味らしい。遠目に見ると、かなり景観から浮いていた。
 以前の家とは、似ても似つかない。
 鍵で玄関を開けて、そのまま自室へ直行する。朝に整えておいたベッドに、仰向けに寝転んだ。
 先ほどの夢が脳裏にちらついていて、とても目を閉じることは叶わなかった。

Scene3: Misgiving


 インターホンが鳴ったのが聞こえた。
 例によって叔父さんはいないので、階段を降りて玄関に出て行く。時計を見ると、まだ四時過ぎだ。曇っているからか、家中に不快な薄暗さがあった。
 訪ねてきたのは、葵嶋さんだった。
 制服姿だ。
「葵嶋さん、急にどうしたの?」
 俺が尋ねると、彼女は少し照れたように笑った。
「お見舞い、かな。五組の友達から、今日の分のプリント預かってきたの」
 そう言って、鞄の中からプリント数枚を渡してくれた。俺は礼を言いつつ受け取る。
「あとこれ。相生橋のパン屋さんで買ってきたんだけど、よかったら食べて」
 続いて、彼女は淡い黄色の紙袋を差し出した。受け取って、そういえば昼に何も食べてなかったと思い当たる。
「ありがとう。おやつとして頂くよ」
 彼女は頷いた。そしてふと尋ねる。
「霧原君、着替えてないの?」
 そう言われて気づいた。ずっと同じ体勢だったせいで、俺のワイシャツには皺がついていた。
「ちょっと、気力がなくてさ」
 暗澹たる気持ちが首をもたげた。
「眠かったのもあるし」
 つい、ただの寝不足だと説明したことを忘れていた。俺は慌てて付け加えた。
「ふうん……」
 それきり、彼女は何も言わない。
 本当に見舞いに来ただけなのだろうか。そもそも、ただの寝不足だと言ったはずなのに、どうして彼女は……。きっと、テニス部だってまだ活動している時刻だろうに。
 何か用があるのか聞いてみようと思いかけた直後、彼女が唐突に口を開いた。
「寝不足、っていうのはさ」
「う、うん」
 俺は言葉を引っ込めて、応じる。
「たぶん、嘘、だよね」
「……、どうしてそう思うの?」
 どうしようもなく図星な追及を、慎重にかわす。
「だって霧原くん、私に何か大事なこと隠してるみたい」
「……葵嶋さんには、関係ないことだから」
 これも嘘だ。俺の能力は、彼女と俺が関わる上で大きく影響してきた。
「関係ないんだったら、どうして教えてくれないの? 私が知ったら、いけないことなの?」
「すごく、個人的なことだから。自分の頭から外に出すのも、嫌なんだ」
 これは嘘じゃない。できれば口にしたくはないことだし、彼女が知ることにはデメリットしかない。
 それに、簡単に信じてもらえるとも思えない。俺は自殺の意思が分かるんだよ、などと言ったところで。
「誰だって、人に知られたくないことのの一つや二つ、抱えているんじゃないかな?」
 なるべく感情的にならないように、やんわりと諭すように言う。
 葵嶋さんは黙り込んでしまった。さすがにもう勘ぐる気はないのだろうと安堵しかけた時、
「……霧原君がそんなこと言うの、卑怯だよ」
 彼女は、ぐっと押さえつけたような声で、絞り出すように言った。
「一学期の、知り合ってすぐの時。霧原君だって、私がリスカやってたのを確かめようとしたでしょ」
 彼女は、右手で自分の左腕に触れた。
「すごく強い力で、腕つかんで……怖かった」
「あれは……」
 確かに自分の意思だった。俺は言葉を続けられない。
 彼女は俯きがちになり、両方の拳を固めて立っていた。その様子が、悲嘆というより、悔しさをたたえたように見えるのが不思議だった。
「私だって、知られたくなかったのに。触れないで欲しかったのに」
 知りたくて知ったわけじゃない、とは言えなかった。能力が影響したにせよ、俺が積極的にそうしたことは、事実なのだから。
「私の心に踏み込んでおいて、自分が踏み込まれそうになったら逃げるの!?」
 心臓をナイフで一突きにされるような感覚を覚えて、息が詰まる。
 葵嶋さんは、叫んだきり何も言わず、踵を返して出ていった。
 俺は玄関にしばらく立ち尽くしていた。不意に、頬に生温かいものが伝ったのを感じて、慌ててそれを拭い去る。
 ……今のは、かなり応えた。
 ここ数年、感情の爆発に触れることは、全くと言っていいほどなくなっていた。
 そういう人間は昔から苦手で、自分のほうから距離を置いていたふしがあった。俺はそれが、一種のトラウマとなっていたから。
 それでも俺の近くにいるのは、園美や叔父さん、どちらも感情的になることは稀だ。
 しかし、葵嶋さんは……。
 俺は両手のプリントと紙袋を床に置いた。玄関の鍵を締め直して、自分の部屋に戻ることにする。
 分からない。彼女の存在がどういうものか。どう関わっていけばいいのか。彼女が何を思い、どんな論理を展開しているのか。
 結局、彼女とうまくやっているなんていうのは、幻想だったのかもしれない。
 俺が階段の一段目に足を置いた時、再びインターホンが鳴った。

Scene4: :I'm on your side.


Another View - 十重坂園美

 私は、修司の家へ向かっていた。
 午前中、生徒会内では、彼が登校中に倒れたということが話題に上がっていた。詳しく聞くと、彼は早退したらしかった。
 彼の家族の事情は、概ね把握していた。昨日、彼の家で暮らしている叔父がしばらく実家に戻るのだとも聞いていた。
 おそらく彼は、今夜は一人で家にいることになるのだろう。
 修司の家の前の通りに出たとき、その家から一つの人影が飛び出した。それは私に気づくことなく、背中を向けて、通りの先へ駆けていった。
 あれは、白泉高校の制服だ。修司の家に来るような女子はというと、今のところ一人しか思い当たらない。
 おそらく、葵嶋彩香。
 彼女の姿はすでに遠く、到底追いつけそうもない。とりあえず、そのまま修司の家の敷地に入り、インターホンを押す。
 彼は玄関にいたのか、しばらく待つと鍵の音がして、ゆっくりと扉が開いた。
「……園美か」
 修司の表情は、落胆したようでもあり、安堵したようでもあり。
「悪かったわね、葵嶋さんじゃなくて十重坂園美で」
 修司は何も言わなかった。
 私は、玄関から上がった床の上、修司の後ろに、数枚の紙と紙袋が置いてあるのを見つける。
 それのおかげで、彩香がここにきた理由は大方想像がついた。
 私と、ほぼ同じらしい。
「何しに来たんだよ、おまえ」
「何って、これよ」
 私は、食材の入った手提げを掲げる。
「具合、悪いんじゃないの? 夕食作りに来たんだけど」
「別に具合悪いわけじゃない。夕食は自分で作れる」
「じゃ、どうして早退?」
「……『雷』だよ。久々だったから、聴いたら気分悪くなった」
「原因は?」
 修司は、答えない。
 対象の距離が遠くて確かめなかったのか。
 それとも、認めたくない人物なのか。
 修司は最近、彩香と登校していると聞く。そして、彼が倒れたというのは朝、登校中だ。
 予測するのは、それほど困難なことではなかった。
「葵嶋さん、なの?」
「違う!」
 名前が上がったのと同時に、彼は大声で否定した。
「絶対に違う。そんなはずがないんだ。葵嶋さんが原因なはずは、ない」
 繰り返す言葉は、絶対に認めないという強迫性を感じさせる一方。彼の声は、徐々に弱々しく、押し殺したように響く。
 彩香の心に自殺の意思など微塵もないと、言い切れないことが分かっているから。
 他人の心など、誰にも理解できはしないから。
 ……失敗だった。
 どうやら私は、修司の疑念を言葉にしてしまったらしい。葵嶋彩香イコール、修司にとって危険な人物だという等式が、無意識に働いて。
「……ごめん」
 しばらく、重苦しい沈黙が続いた。
「……分からないんだ」
 いつになく抑揚のない調子で、彼は呟いた。
「俺の能力は自殺の意思を感知するだけで、心を読む力じゃない。俺は、葵嶋さんが何を考えてるかなんて、全然分からないんだ」
 だから信じたいのに信じられない、と彼は言った。
 私は黙ったまま、彼の身体に手を回して、引き寄せた。
 彼は、抵抗しなかった。
「いきなり、相手の全てを理解しようなんて思わなくても大丈夫。少しずつでいいの」
 私も、そうしてきた。
 母の自殺という衝撃に打たれて、変わり果ててしまった修司に対して。戸惑いながらも、少しずつ、着実に接していった。
 その四年の成果が、今。
 どちらともなく、私たちは離れる。
「今朝、葵嶋さんから……電話があった」
 ぽつりぽつりと、彼は語り始めた。
「その後、通学途中で倒れた」
「じゃあ、原因は葵嶋さんと一緒にいたことじゃなくて、その電話ってこと?」
「そう思う。倒れる直前に、それを思い出したんだ」
 電話の内容について尋ねると、無言電話だったが、不吉なものを感じたと修司は話した。
 しかし、それが事実だとしたら、自殺の意思を含んだ無言電話など、どうしてかける理由があるのだろうか。
 ましてや、この修司にとって劇物となる、それを……。
 そこでふと、思い当たった。
「もしかして、『雷』のこと、葵嶋さんに話してないの?」
「……まあ、うん」
 修司は、曖昧に肯定する。
「あのねえ、自分のことは理解させないくせに、他人が理解できないとかぼやくんじゃないの」
 彼はいつものように一言返してくることもなく、うなだれた。
 覇気がない。こっちまで調子が狂う気がした。
「明日、まずそれを説明しないと。それからでしょ、彼女の核心に迫るのは」
「……そうする」
 私は、靴を脱いで彼の家に上がる。床にあったプリントと紙袋を、修司に持たせた。
「台所、借りるから。用意できたら呼ぶわ」
 玄関から奥に入って、左――ダイニングキッチンへの扉に手をかけたとき、修司は私に話しかけた。
「あのさ。どうして、園美も、葵嶋さんも、そんなに俺のことを気にするんだろう」
「なに、それ?」
 脈絡もない上に、聞いてもあまり意味のない質問だった。
「特に、理由が思い当たらないんだよ」
 そう付け足し、修司は依然として答えを求めていた。私は一つ息をついて、彼のほうに向き直る。
「今まで言わなかったけど、私が小さい頃、修司のお母さんに命を救われてね。その恩を……」
 彼が思った以上に呆気にとられているので、言葉を切った。
「嘘。 そんなドラマみたいな展開があるわけないでしょ」
「……お前が言うと、冗談に聞こえねえんだよ」
 彼は、一言返した。いつもの調子は戻っただろうか。
「関係を切りたくなかったから関わった。放っておけなかったから放っておかなかった。それだけじゃ、理由にならない?」
 改めて、修司の手にある紙袋を見る。
「多分、葵嶋さんも同じだと思うんだけど」
 そっか、と彼は答えた。
 ……もっとも彼女の場合は、それだけではないのかもしれないが。

* * *

 修司が部屋に戻った後、私は一通り夕食の準備を終えて、問題の電話機の前に立った。
 あまり使用頻度は高くないのか、受話器にもうっすらと埃が積もっていた。不在着信を示す、赤いランプが点灯している。
 今朝の時間帯を、着信履歴から探す。すると、六時ちょうどに一度、不在着信。それから二分後に、今度は別の番号から電話があったようだ。
 最初の番号は十一桁で、標準的な携帯電話の番号に思えた。対して、次の番号は十九桁。
 そして修司がとった電話は、どうやら後者であるらしい。
「〇〇一、〇一〇……この番号は、確か……」
 取っ掛かりは見つかった。あと少しの確認で、おそらくこの事件は決着がつく。
 私は、二つの番号を自分の携帯に打ち込んだ。
 この程度の宿題なら、軽いものだろう。
 私は携帯を閉じて、彼に夕食ができたと伝えに行くことにした。

Another View end.

Scene5: Confession


 夏休み初日。休みだというのに、俺はいつもと同じ時間には、すでに目覚めていた。
 俺は、母さんが死んだ後、慢性的な不眠に悩まされた時期があった。眠りが浅く、夜に何度も起きては眠りを繰り返していたものだった。
 高校に入った頃からは、良くなってきたと思っていたのだが……。
 ベッドから身体を起こし、カーテンを開ける。日はすでに上がりかけていて、小鳥が昨日と同じ声で鳴いていた。
 そう簡単に、人の心は変わらないのかもしれない。
 それはおそらく、葵嶋さんも。
「掃除でもするか」
 誰もいない家で一人呟く。
 叔父さんの帰りは、明日の夕方だと聞いている。それまでの自己管理は、当然ながら自分の役目だ。
 そして、午後には葵嶋さんが家に来る。そこで俺の、自殺を感知する能力について打ち明けなければならない。
 正直、彼女にその話をすることには本当に抵抗があった。第一に、信じてもらえるかが問題だった。
 もし信じてもらえたとして、これまでの関係は維持できるだろうか。彼女は、俺が雷を受けないようにと、距離をおくかもしれない。二ヶ月前の事件のことに関して、改めて責任を感じさせてしまうかもしれない。
 そうして思いにふけっていると、不意に携帯電話が鳴った。
 一瞬、『電話』であるそれに対して身構えるが、すぐに音は止んだ。メールだったらしい。
 確認すると、園美からだった。二時位に葵嶋さんを連れて家に来るとのこと。
 そして、あまり考えすぎないように、との言葉が添えられていた。
 確かに、まだ分からないのだ。打ち明けた時、彼女がどうなるのかは。不確実な相手の気持ちについて悩むのは、止めることにした。

* * *

 果たして、葵嶋さんはやってきた。
 玄関に出て、二人を迎える。園美はいつもと何ら変わりがなく、葵嶋さんはというと、どこか不安そうな表情。あの事件の後、初めて登校した日の表情と似ていた。
 園美が、なんとか言えと目で訴えている。とりあえず、呼んだ理由を話す。
「今日は、ずっと葵嶋さんに隠してきたこと、話そうと思うんだ。上がって」
「うん。……お邪魔します」
 ドアを開けて、先に葵嶋さんを居間に案内する。その後に続いた園美に、囁かれた。
「修司が話してる間、私のことは空気だとでも思っておいて。話が終わったら、私も言うことあるから」
 二人をソファに座らせ、飲み物を出すため台所へ入った。
 麦茶をグラスに注ぐ。俺自身もすでに喉が渇いていたので、一杯余計に注いでその場で飲み干した。
 氷を入れると、パキ、とひび割れる音がした。それさえも、何かの前兆のような気がして、不吉に思えてくる。
 二人分、両手に麦茶のグラスを持って、居間に戻る。
「麦茶でよかったかな」
「うん。ありがと」
 グラスを置いて間もなく、葵嶋さんはそれを口にした。彼女も落ち着かないのだろうか、などと思う。
 何から話していいか分からない俺は、葵嶋さんがグラスを置いても、しばらく黙っていた。
「俺さ……」
 心を決めた。葵嶋さんの目を真っ直ぐ見て、俺は切り出す。
「誰かが自殺しようとする時、雷が聴こえるんだ」
 しばし、沈黙が流れる。
「どういう、こと?」
 それから俺は、淡々と話し続けた。
 中学校に入った頃から、父が母に対して暴力を振るうようになったこと。
 その後、母が精神を病んだこと。
 そして、母の自殺した日。
「……寝室の襖を開けた瞬間、ちょうど近くに雷が落ちて、母さんが首を吊った姿が、一瞬だけ見えた。俺は、そこで気絶したらしくて。起きた時には、もう遅かった。
 俺が気絶している間に、母さんは死んだ。……俺がそこで助けていれば、命は落とさなかったのに。
 今更、どうしようも無いことだって分かってる。でもやっぱり、ずっとそれを引きずっているから、雷が聴こえるようになったんだと思う。あの時と同じ状況を、いつも探しているのかもしれないって、そう思う」
 俺が一通り話し終わると、沈黙が戻る。話している間、葵嶋さんの表情は固かった。
 しばらくして、彼女は表情を変えずに言う。
「それ、本当の話なの?」
「冗談でこんなこと言わないよ」
 誰かが、ましてや自分の親が死ぬなんて話を、冗談にしていいはずがない。
「じゃあ二ヶ月前の、あの時も……?」
「そうだよ。俺は葵嶋さんが自殺するかもしれないって、分かってた。雷を聴いたから」
 俺がそう答えると、葵嶋さんは明らかに動揺した。
「私といたとき、霧原くんは……」
 つらかったのか、と問われた気がした。彼女の言葉は、最後まで聞き取れなかったけれど。
 正直な所を言おう。今日はそのために来てもらったのだから。
「少なくとも、いい気分ではなかったよ」
 『雷』を聴けば、虚無感を感じたり、やり場のない怒りが湧いてきたりもする。
 俺は機械ではない。どうしようと、それに対して完璧に無関心でいることは、不可能に等しかった。
 彼女は少し俯いた。正直に言いすぎただろうかと少し後悔するが、仕方がないことだ。
「なんでそんなことするのかな、とも思った。葵嶋さんのときは、特に」
「……正直、私自身もよく分からない。どうして、あんなことしたのか。
 ただ、一つ思ったの。自殺しようとしてる人はみんな、今よりもっと幸せに生きたいって思ってるんじゃないか、って」
「どういうこと?」
 彼女の言うことは、なんだか逆説的だ。
 それについて、ごく自然に彼女は答えた。
「死にたいと思うのは生きてるからだし、そのくらい追い詰められてるってことは、幸せな気持ちも知っているってこと、だよね?」
 私がそうだっただけかな、と彼女は呟いて、続けた。
「中学生になった時くらいから、私、ずっと嘘の自分を作ってきた気がする。先生におべっか使ったり、心にもないことを言ったり、自分のグループの子たちのいじめに加担したり。
 それが高校になって変わるかと思ったら、結局同じになっちゃって、ちょっと自分が嫌になってきて。それで、リスカに手を出して」
 葵嶋さんは、そこで一度言葉を切った。
 その先は、言う必要はないということだろう。
「だから、自殺したいって思うその意思自体は、否定しないでほしい。……できたら、私も。
 みんな、そのくらい全力で幸せを求めて、真剣に生きてるんだと思うから」
 彼女は、言ってから、何かに気づいたかのようにハッとして、手を振って否定するそぶりを見せた。
「えっと、別に自殺することを肯定してるわけじゃないよ。そういう考え方もできるかもってだけで」
 俺はそこで、聞きたくはないが確認しなければいけないことを思い出す。
「あのさ。葵嶋さんは、まだ死にたいと思っているのかな」
 彼女は少し虚を突かれた様子だったが、改まって、まっすぐに俺のほうを見て告げた。
「まさか。思わないよ」
 人の心を見ることはできない。元々、俺にできるのは、その言葉を信じるか、信じないかという選択だけなのだ。
 それならば、俺は信じる。彼女の言う言葉だから、信じる。
「……うん。よかった」
 俺がそう言うと、葵嶋さんは表情を緩めて小さく息を吐いた。
「二人の問題は、解決した?」
 今まで、黙って話を聞いていた園美が、口を開く。葵嶋さんと顔を見合わせた後、俺は頷いた。
「そう。 でも、一つ気がかりなことがあるの」
 園美はそう言ってから、途中で不自然に間を置く。彼女が言い方を迷うなど、珍しいことだった。
「まだ、『雷雲』の姿が、分かっていない」

Scene6: Long-absent dialogue


 時刻はまだ四時過ぎ。日が長く明るい時間帯のはずが、昨日と同じく、すでに薄暗くなりかけていた。
「どういう意味だよ、それ」
 俺が園美に尋ねると、彼女は腰を上げて、リビングの一角、棚の上の電話の前に立った。
 俺はその時まで、家の電話の存在を忘れていた。
 そして一つ思い当たり、追って電話の前に立つ。葵嶋さんも、戸惑いながらもついてきた。
電話の液晶画面には、園美が操作したのだろうか、一つの着信履歴が表示されていた。
「これ、私の番号……」
 左に立つ葵嶋さんが、そう呟いた。時刻は、昨日の朝六時ちょうど。
 園美は無言のままに、電話機のボタンを一つ押す。すると、先ほどより長い番号が表示された。時刻は、昨日の朝六時二分。
「電話は二つ掛かってきていたのよ。
 最初の、葵嶋さんのモーニングコールは、修司が出る前に切れてしまった」
「モーニングコールじゃねえだろ……」
 わざとなのか知らないが、否定しておく。同意を求めて葵嶋さんに視線を向けるが、彼女は目を逸らしてしまった。
「まあ、何でもいいけど。その直後に掛かってきたのが、例の無言電話。呼び出し音が続いたから、一つの電話だと勘違いしたんでしょ」
 そう言われると、いつから呼び出し音が鳴っていたのかは、はっきり覚えていない。
「じゃあ、葵嶋さんの電話が原因じゃないのは、確定したってことだよな」
「ええ。 だけど一つ、気になるのは」
 また口ごもる。そんなに言いづらいことなのだろうか。
「……この番号は、アメリカからの国際電話なのよ」
 うちの電話番号を知っていて、現在アメリカにいる人物といえば、一人しか思い当たらない。
「……まさか、親父が?」
「分からない。私の携帯からじゃ掛からなかったの。修司の家の番号なら、出てくれると思うんだけど」
 彼女が言い終わらないうちに、俺は受話器をとって、掛け直しのボタンを押していた。
 呼び出し音が、酷くゆっくりに聴こえた。
 親父が、あんな電話をかけてくる理由とは何だ? 心の中では、その問いに対する不吉な答えが、すでに浮き上がり始めていた。
『おかけになった電話は、現在……』
「くそっ!」
 俺は受話器を置いた。
 園美は、電話の脇の置時計をこちらに傾けて、言う。
「アメリカの、カリフォルニア州との時差はマイナス十六時間。今は、深夜零時くらいよ」
「どうして、もっと早く言わなかったんだよ」
「不確実なことで、修司を不安にさせたくなかったから。私の中だけで、済ませたかったの」
「……」
 そう言われては、無下に非難もできない。彼女が俺の精神状態を気にしているのは、いつものことだ。
「霧原くん、どういうこと? お父さんが、どうかしたの?」
 不安そうな声で、葵嶋さんが尋ねた。
 彼女には、無言電話のことを話していなかった。
「……俺が昨日倒れたのは、親父のかけてきた電話のせいかもしれないんだ」
「えっと、それって……」
 そこで不意に、電話が鳴った。葵嶋さんへの説明は中断して、受話器をとる。
「もしもし!」
「……修司、か?」
 俺の名前を呼ぶその声に、聞き覚えはなかった。実の父親であるというのに、到底、馴染み深い声とは言えない。
「親父。昨日の電話は、何だったんだよ」
 園美が、音声をスピーカーに切り替えてくれと小声で伝えてきた。俺は、彼女の指示通りにして、受話器を本体の脇に置いた。
「……最後に、息子の声が聴きたかったんだ」
 しばらく考えていた様子の親父は、やっとそれだけ口にした。
「最後って、何が! 何で急に声が聴きたくなるわけだ? そんなに愛らしい息子だったか、俺は!」
「……修司、落ち着いて」
 園美の一言で、我に返る。自分でも気付かないうちに、語調が強くなっていた。
「今となっては、謝ることしかできない。すまない」
「親父、まさかとは思うけど――」
「死ぬつもりじゃ、ないよな」
「……」
 彼は沈黙していたが、俺はすでに、電話の向こうから聞こえる、パチパチという火花の音を聴いていた。
「なんとか言えよ」
 彼の自殺の意思が、目覚めようとしている。分かっていても、否定してほしかった。
「……やはりお前も、自殺を感じ取れるのか」
「お前〝も〟?」
 誰か他に、この能力を持った者がいるのか?
「その能力は、佐希子から受け継がれたものだ」
 佐希子。母さんの、名前。
「彼女は、先天的に自殺を感知する能力を持っていた。結婚当初、彼女はその能力について、私に黙っていた。私も、彼女は普通の様子に見えた。何らおかしな所のない、理想の女性だと思った」
「だが、お前が生まれた後、少しずつ彼女の様子はおかしくなっていった。外出先で急に錯乱状態になったり、テレビを見ている最中に失神したり、不眠症に悩まされているとも言っていた。ちょうど、日本が不況に陥った頃だ」
 一九九八年以降の、慢性的な不況。それは、自殺が増えた原因の一つでもあるらしい。
「そうして、私はやっと気づいた。彼女が普通でないことに」
「それで、母さんに暴力を?」
「……知らなかったんだ。私は、彼女の能力などまったく聞かされていなかった。十年以上もの間、騙されていたと感じた」
「佐希子がそのことについて打ち明けたとき、彼女は泣いて私に謝った。それでも私は、許せなかった。もはや彼女とともに生きていくことに耐えられそうもなかった。
 後悔は、している……彼女は、私が殺したも同然だ」
 そこで親父は、一つ咳払いをした。
「先日、和成君……おまえの叔父から、連絡があってな。修司が、自殺しようとした同級生を救おうとして、あと少しで死ぬところだったと、聞かされた」
「いつまで海外に逃げているつもりだと、責められたよ。おまえが苦しんでいるのは私のせいだということを、再認識させられた。そして、……
 なあ修司、仕事のために生きてきたような私が、この頃はそれさえ手につかないんだ。これが私にとってどういうことか、分かるだろう?」
 親父の声音が、急に穏やかになってきた気がしていた。
「今まで本当にすまなかった。お前の人生を滅茶苦茶にしたのは、他でもないこの私だった」
 俺はそこで黙りかねて、電話に向かって叫んだ。
「そんな風に思ってるんだったら、家に帰って、家の事をちゃんと見ててくれればいいだろ! 死ぬ必要なんか、どこにもない!」
「相続のことなら心配するな。負債は清算しておいたから、単純承認を選択すればいいだけだ」
「聞けよ!」
「……あと三年で、おまえも成人するのか。大学は行ったほうがいいが、今すぐやりたいことがあるならそれを目指してもいいだろうな。なんにせよ、いい相手とめぐり合って、幸せに過ごせ。それだけの金は稼いだつもりだ」
「待てよ、親父、今どこだ? こういうのは、電話じゃなくて直接話すことだろ!」
「……」
 言う気はないというのか。場所が分からなければ、物理的に自殺を止めることはできない。
 そして、この男をうまく説得できるだけの言葉を、俺は持っていない。思えば、親父が、あの時から何を思い、何を考え、何に苦しんで生きてきたのかを、俺はまったく知らない。
 遠い記憶の中の、背が高い親父の姿に白いもやがかかり、その輪郭をあいまいにしていく。気づけば、辺りは霧の海。
 心が、見えない――
 その時、鼓膜が切り裂かれたかのような、凄まじい爆音が轟き、閃光があたりを包んだ。俺はとっさに目を閉じて、耳を塞ぐ。
 閃光を伴うこれは、自然現象の雷だ。おそらくこの近辺に落ちたのだろう。
 親父の自殺が実行されたということではない。その思考にたどり着くと、俺はひとまず安堵して目を開けた。
「二、三、四、……」
 園美が、時計を見ながら小さく秒数を数えていた。俺がその光景を頭の中で咀嚼しているうちに、電話のスピーカーから、微かな遠雷が聞こえてきた。
「……五秒。葵嶋さん、テレビをつけてくれる?」
「え? えっと、はい」
 葵嶋さんは、言われたとおりにテレビをつけた。園美は、テーブルの上からリモコンを取り上げると、音を消してから、データ放送を表示させた。
 そこにあるのは、この地方の雷注意報だ。
「県の北東部に集中……ほぼ間違いない」
 独り言だろう、彼女はやっと聞こえるかという声量で呟くと、俺に聞いてきた。
「修司、あなたのお父さんが帰国しているという前提で聞くわ。ここから半径一・七キロの範囲で考えられるとしたら、あの……」
 引越し前の旧家。そこしか、ない。
 俺は、次の瞬間にはもう駆け出していた。
 玄関に手をかけたとき、やっと思考が園美に追いついた。ここに雷が落ちたとき、親父のいる場所では五秒後にその雷が聞こえた。音は秒速三四〇メートルで進むから、この地点を中心にして、三四〇×五メートル、約一・七キロ離れていることになる。
 そして、俺の引越し前の家との距離も、おそらくではあるが一キロ以上。
 絶対に親父はそこにいる。いなければ、最早打つ手はない。
 園美の制止の声が聞こえたが、かまわず玄関を開けて外へ出た。普段は使わない自転車に乗って、すぐに漕ぎ出した。
 あたりはすっかり暗く、分厚い雲が空を覆っていた。

Scene7: Hold on...


Another View - 十重坂園美

 修司を追って玄関へ出たが、彼はすでにその旧家へと向かってしまったようだった。ここに落ちた雷と、電話から聞こえた雷が百パーセント同一であるとは言い切れないが、それ以外なら、助けられる希望もない。
 彼が、父親の死と鉢合わせすることは、なんとしても避けたかった。
 私がリビングに戻ると、電話から修司の父の声がする。
「修司、どうした。泣いているのか」
 私は、葵嶋さんに電話を指し示し、「相手をして」との意思を伝えた。私は、修司の旧家の住所を調べなくてはならない。
「ええと、霧原く……あ、し、修司くんは今、その……」
 彩香は、私が予想していたよりもかなり不器用に対応した。社交的だとの印象だったが、こっちが本来の彼女なのかも知れない。
 私はその隣で、辞書のように分厚い電話帳を繰りながら、なるべく短時間で目的の住所を見つけようとする。
「……君は?」
 電話の向こうの声が、怪訝そうに訊ねた。
「私はその……修司くんの……えっと」
「……恋人候補」
 私が、電話のマイクに拾われないように小さく呟くと、
「友達です! ただの友達で、葵嶋彩香っていいます」
 彼女は大声で否定した。素直じゃないのか、その逆か。
「そうか、修司の……」
 彼の旧家の住所を見つけた。私は電話から離れながら、まず一一九番に電話をかけ、その住所を告げる。
 救急車はおよそ七分ほどで到着する。今すぐではなく、あと五分程度、修司の父を自殺させなければ、死は免れるはずだ。
「修司と、仲良くしてやってくれ。……私はそろそろ、失礼するよ」
 そう思った矢先、相手に電話を切られそうになっている。
「ちょっと待ってください。一つ、聞かせてください」
「何かな」
「どうして、修司くんのお母さんは、あなたに自分の能力を言わなかったと思いますか」
「聞いていたのか、さっきの話を」
「えっと、ごめんなさい、電話のスピーカーで」
「……まあ、いい」
 答えを待つうち、一分経過。いい時間稼ぎになっている。
「……私にその能力を打ち明けたら、私たちの関係に亀裂が入ると思ったんじゃないか」
 実際にそうなってしまったと、彼は付け足した。
 その答えを予期していたかのように、彼女は堂々と返した。
「修司くんも、まったく同じことで悩んでました。私にずっと、秘密にしていたみたいで」
 電話の向こうから、息を呑む雰囲気が伝わった。
「でも私、修司くんを責められませんでした。私も、隠していたことがいっぱいありましたから」
 彼女は、リストカットのことや、自殺しようと思った動機のことを言っているのだろう。
「隠していたほうが都合がいいこと、うまくいくことって、たくさんあると思います。でも、そんな中で、誰かが自分に秘密を打ち明けてくれるのは、すごく戸惑って、相手を信じられなくなりそうだけど、とても、特別なことじゃないんですか?」
 修司も、不安を抱えていた。他人の心を見ることはできないのだという、漠然とした、霧のような不安。
 秘密の告白、あるいは通常の、想いを伝えるという告白の行為は、その霧が一瞬だけ晴れる瞬間なのかもしれない。
 電話の向こうから、しばらく反応はなかった。しばらくして、
「……その言葉は、十六年前に聞きたかったな」
 そう言い残して、電話は切れた。
 救急車を呼んでから、ほぼ五分後。きわどいラインだ。
「だめだった、のかな……」
 彼女は涙声でそう言い、その場にひざを着いた。両手で顔を覆い隠して、控えめな嗚咽を漏らす。
 私は、電話に再び近づいていって、受話器をとり、発信履歴から、その番号へとリダイヤルしようとした。
 だが、私はそれがとてつもなく難しいことに気がついた。電話機本体の、ボタンがぼやけて見えなかったのだ。
「……今更?」
 相も変わらず、人の心はよく分からないものだった。

Another View end.

Scene8: Rescue


 一心に、自転車を漕ぐ。あまり車の通らない道を選んで、市の東にある引越し前の家へと向かっていく。大粒の雨が、顔に当たる。
 俺はいつも、助けようとしている相手のことを、何も知らない。葵嶋さんの時、母さんの時。
 果てしなく続くかのように見える田園地帯に、霧が漂いだしたかのような錯覚に陥る。
 俺は、誰の心も分からなくて。分からないまま、その人はどこかへ消えてしまう。
 いや、俺が分かろうとしていなかったのかもしれない。
 人の心を見ることは、きっと、綺麗事では済まされないのだ。葵嶋さんが打ち明けてくれた本当の気持ちのように、誰にだって負の感情はある。偽り、騙し、傷つけ、不快にさせる他人への悪意。または、様々な苦しみから逃れようとして起こる、死への衝動――タナトスといったか――。それと対面するのが怖くて、ずっと、見ないようにしてきただけなのかもしれない。
 雷が鳴り始めているからか、外に人の姿はほぼ見られない。駅の近く、つまりは今住んでいる家の近くから離れるほど、町らしさは薄れていく。幸い、信号に足止めをかけられることもなかった。
 雨が本振りになった頃、俺は到着した。かつて住んでいた家の面影はそのままだった。雨戸はすべて締め切られていたが、一箇所だけ開いていた。
 ――寝室。母さんの死んだ部屋の、前。
 雨戸に鍵はないから、容易に開けられたのだろう。その場所に、ガラスを割って中に入った跡があった。
 中から、携帯電話の着信音が聞こえていた。
 やはり、この中に親父はいる。その確信を持つと同時に、一向に鳴り止まない着信音に戦慄を覚えた。
 ――親父は、既に電話に出られる状態では、ない?
 縁側にかけた右足がすくんで、力が入らなかった。
 目の前に、三年前の光景がちらつく。あれからずっと、俺が恐れ続けた光景。
 怖かった。
 着信音が、途絶えた。急にあたりが静かになったように感じる。雨が瓦を打つ音が聞こえて、よりいっそう、過去の記憶が鮮明に思い出される。
 そのまま時が過ぎると、また、同じ着信音が鳴り始めた。
 ――自分から電話してきたくせに、人の電話には出ないって言うのか!
 心の中で、叫んでいた。
 相手と対話がしたいから、電話をかけるんじゃないか。
 朝、一緒に登校しようと伝えてくれるはずだった、、葵嶋さんからの電話も。かけてきたくせに何も喋らなかった、親父からの無言電話も。
 知らないことを分かり合いたいと思って、対話を求めるんじゃないか。
 誰が何を考えているのか、自然には見えてこない、霧に満ちた世界。この霧を払うための陽光とは、きっと、他人と対話をするということなのだ。
 もっと、話せばいい。分からなければ、話し合えばいい。
 そのためには、相手が生きていなければならない。
 死人に、口は、無いのだ。
 俺は、縁側にかけた足に力を入れ直す。体の重心は難なく持ち上がった。躊躇うことなく、家の中に入る。
 そこには、首を吊った男のシルエットが浮かんでいて、その隣には、脚立が置いてあった。
 俺は、心拍数が急激に上がるのを感じていた。予想できたことでも、立っている状態を保つのがやっとだった。
 どうやって助ければいいのかを、瞬時に考える。
 空き家となってしまった今、この部屋には、年代ものの洋服箪笥しか残されていなかった。俺は、とりあえず箪笥を親父の近くに動かした。服が入っていないからか、あまり苦労はしなかった。彼の体を、それに寄りかからせるようにする。
 あとは、縄を切れれば……。
 俺は、再び庭へ出た。裏の倉庫に、雑草を取るための鋤が立てかけてあった。
 すぐにそれを手にとって、また寝室に戻った。
 ――きっと、俺の家族全員が、少しずつ悪かったのだ。
 脚立に乗り、親父の頭の上の部分の縄を持ち、鋤の刃の部分で何度も切りつける。
 ――対話が、不足していたのだ。
 刃は錆びついていて切れ味は期待できなかったが、がむしゃらにそれを繰り返した。
 手元が暗く、よく見えない。何度も自分の手を打ってしまったが、大きな痛みは感じなかった。
 ――それが、俺の母さんから続いていた、不幸の連鎖。
 幻聴だろうか。救急車のサイレンが聴こえてきた。そして、その音は徐々に大きくなり、赤い光が、開いた戸から明滅して差し込んできた。幻では、ないようだ。
 俺はその光を頼りに、縄の一番細くなった部分に向けて、渾身の力で鋤を振るった。
 ――そんなものは、ここで、断ち切る!
 縄が切れた。持っていた縄は俺の手の中から滑り落ちて、親父の体は重力に従い、箪笥を背にずり落ちるようにして、床に伏した。
 ほぼ同時に、救急隊員の数人が家の中に入ってきた。
 彼らが持ってきた電灯の光に照らされて、俺は、脚立の上から、三年ぶりに会う、自分の父親の顔を見下ろした。
 それは、自分の記憶しているものとはすべてが違っていた。髪は白く、少なく、顔と額には深い皺が刻まれている。その口は、何かを求めて祈るかのように、小さく開いていた。

Scene9: Nebulous World


 相生橋駅の西口を出る。
 暑さが最も厳しいこの時期だが、決して面倒なだけの遠出ではなかった。
 すっかり見慣れたこの駅は、西口からすぐ近くに、線路に並走するように川が流れている。その川にかかる橋が、この地域の名前である『相生橋』とのことだ。
 いつもの場所、出口を出てすぐの自動販売機近くに、彼女の姿を見つける。
 向こうも俺に気づいて、駆け寄ってきた。
「おはよう、葵嶋さん。今日は、部活は午後練だった?」
「今日は一日オフだよ。ほら、お盆も近いから」
「あ、そうか」
 親父の自殺騒動から、一ヶ月足らず。
 病院に搬送されたとき、彼は意識が無く、一時的に呼吸が止まっていた。だが、人工呼吸や強心剤を施すと、呼吸と脈は回復したらしい。
 医者の見立てや俺の見た状況から推測するには、首を吊ってから八分から十分ほど経って助けられたとのことで、助かるかどうかの境目だったという。
 彼は一命を取り留めて、その三日後には意識が回復したが、呼吸が止まっていた間に脳細胞の一部は死んでしまったため、後遺症は残った。現在は、相生橋の施設に移り、リハビリを続けている。
 そして俺は、一週間に数回、そこを訪ねるのが習慣となった。
 葵嶋さんの地元である手前、彼女が付き添ってくれることも珍しくなくなっていた。
「あのさ、わたし、いつまで『葵嶋さん』て呼ばれるのかな。私は、修司くんって呼んでるのに」
 そういえば、その事件が終わってからだろうか。彼女は俺を名前で呼ぶようになっていた。俺の親父がいるところでは、「霧島」を使うわけにもいかないというのが、彼女の主張だった。
「じゃあ、『彩香さん』とか?」
 ふざけて呼んでみるが、彼女は気に入らなかったようだ。
「『彩香』でいいでしょ。十重坂先輩のことは、園美って呼んでるんだし」
 園美は、昔からの惰性がそうさせた感覚がある。葵嶋さんをそう呼ぶのは、正直、気恥ずかしい。
「……まあ、そのうちね」
 彼女はまだ不満そうだったが、しつこく言ってくることはなった。
「よし、行こうか」
 親父のリハビリは、精神的なものが主で、今はまだ、簡単な会話が行えるほどの回復具合だ。俺たちがいても、できることはほとんどない。
 それでも、いつか、自分の父親と対話を行えるようになるまでは、こうして会いに行くつもりでいる。
「名前で呼んでくれない罰として、修司くんの午後の三時間を私が没収ね」
 ……こんな風に、葵嶋さんと会って一緒に過ごすのが、第一の目的になりつつはあるが。
「そうしよう。どうせやることなかったし」
 彼女は頷いて、俺の隣に並ぶ。
 彼女とも、もっと話がしたい。そうすることで、より深く理解し合えると思う。
「あ……見て、あれ」
 葵嶋さんが指差した方向に目を向けると、駅の屋根のへりで、ミストシャワーが稼動していた。
 普段は昼にだけしか見られないのに、珍しい。だが彼女の言葉が意味しているのは、そういうことではなく。
「虹」
 降り注ぐ霧が、天球の真上に昇った太陽からの光を反射して、虹ができていた。
 ――こんなとき、彼女にはなんと返すのがいいんだろう?
 そんな問いが、ふと浮かぶ。
 対話が少ない生活を続けてきた俺は、未だ、普通の人より口下手ではあると思うけれど。
 他人が考えていることの中には、理解しがたくて、受け入れたくないものも、少なくはないけれど。
 一つ一つ、着実に、誰かと対話を重ねていくことが、この不確かな世界の道標になってくれる、そんな気がしていた。










Cumulonimbus - nebula 了


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