Cumulonimbus


Scene0: Encounter on the stairs


 考え事をしながら階段を上るのは賢くない。そんなことを思ったところで、最早手遅れだった。
 夕日が陰を落とす、薄暗い学校の階段。俺は、数段先の踊り場から転びかけている何者かに、今更気づいた。
 とっさに、それを受け止めようと身体が動く。だが、重力に逆らえるわけでもなく。俺とその人物は、仲良く階段を三段ほど転げ落ち、一階の床に投げ出される。
 幸い、誰も目撃者はいなかったようだ。今ここにいるのは俺、霧原修司と、面識のない女子生徒。上履きの色から察するに、二年生……同学年か。
 彼女は何故か目を閉じたまま動こうとしないので、俺は腰と尻の痛みを堪えつつ立ち上がり、声をかけた。
「悪い、大丈夫?」
 返事がないので心配になって、よく目を向ける。
 彼女の制服の左の袖は少しずり上がって、手首の内側から、赤い筋が二、三本のぞいていた。
「その傷――」
「……っ!」
 俺が言い終わらないうちに、彼女は袖をかばうように隠して立ち上がった。
 短めに切りそろえた髪型、どちらかというと小柄で細い体躯。なにか、顔色があまり良くないように見える。
 そして彼女は、もごもごと謝罪の言葉を告げ、昇降口の方向へ駆け出そうとした。したのだろうが、なんだか足どりがおぼつかないように見える。
 しばらく呆けたようにその姿を見送っていると、下校放送が流れ始めた。

Scene1: It is unrelated to me.


 階段での思わぬ事故の後、俺は、頼まれていたゴミ袋の設置を急いで終わらせ、帰宅した。そもそも、あのときは今日の夕食の献立を考えていたのだが、結局、叔父さんに頼ることとなってしまった。
 目の前のテーブルに並ぶ料理は、今日俺が作るべきだったもの。
「ごめん、叔父さん。明日あたり、俺が作るから」
「いや、修司君は学校で忙しいだろうし。休日の、都合のつくときでいいよ」
 叔父さんはにこやかに返してくれる。こんないい人が、どうして家庭を持たずに実家にいたのだろうと不思議に思う。
 現在、霧原家には保護者がいない。母は四年前に死去、父も海外赴任で帰宅日は未定。父が帰るまで、実家にいた叔父さんが家で家事をしてくれている。
「いただきます」
 二人で食卓を囲む。
 いつものように、垂れ流されているニュース番組をBGMに、叔父さんと二言三言、他愛のない話をする。その最中、あるニュースが意識に割り込んでくる。
「12日夕方四時ごろ、――市の中学校で、一年生の男子生徒が校舎屋上から転落、間もなく死亡しました。自宅で見つかった遺書と見られる手紙には、同クラスの数人からいじめを受けていたという細かい記述があり、自殺とみられています。これに対して、学校側は――」
 事を淡々と述べていくアナウンサーは、それ以上言葉を続けることができなかった。
 俺が、リモコンでテレビの電源を落としたからだ。
 途端に静まり返る食卓。
 叔父さんは、俺を見据えはしたものの、口を開くことはなかった。彼には、俺のこの行動の理由なんて、分かっているから。
 しばらく黙って、箸を動かす。
 あのニュースに関連して、引っ張り出された記憶があった。今日、階段でぶつかった女子の、左手首に一瞬見えた傷。あの傷は、明らかに階段で転んでできる類のものではなかった。
 あれは、リストカットの跡だ。
 リストカット。自分の手首に刃物で切り傷をつける自傷行為。
 なぜそんなことをするのか、ぼんやりと夢想する。どうせ、自殺したという中学生と同じく、いじめられたとか、そんなものだろうか。
 心の中で、ため息を一つ。本当に、くだらないと思った。
 そんな理由で、全国の食卓の料理を不味くさせることは許されない。
「どうしたの? 手が止まってるよ」
「あ、うん」
 だが、こんなことを俺が案じてどうなるわけでもない。
 そう割り切って、俺は食事に集中することにした。

Scene2: Distant thunder


 朝、勝手に閉じようとする自らの目蓋に抵抗しながら、携帯電話をいじりつつ電車を待つ。
 足元には、十両編成のドア位置を示す印が三割がた剥げ落ちて貼られている。
 それほど栄えてもいない地域の駅だ。車両は立派だが乗り込む客は少ないという典型で、並び順の先頭を確保することは容易い。
 そこで唐突に、遠雷が聞こえてきた。
 俺は弾かれたように顔を上げ、空模様を確認した。ホームの屋根の隙間に覗く空には、雲の姿は見られない。でも確かに遠くで雷が鳴っている。そしてその方角は、俺の待っている路線の、一つ前の駅とちょうど一致する。
 不吉な予感が首をもたげた。
 ――なんて日だ。
 心の中でそう吐き捨て、俺は電車を待つ列から抜けて、階段へ向かった。
 先ほど降りてきた階段を再び上り終えようかというところで、憶えのある声が掛かる。
「修司」
 顔を上げると、声の主は我が幼馴染――十重坂(とえざか)園美だった。肘近くまであるロングヘア、長身。制服が微妙に似合ってない位に大人びた風貌の奴ではあるが、その瞳の奥には、新しい玩具を見つけた子供のような光が見える。
 まあ、大体何を言ってくるかは想像がつく。
「駅のホームまで来て忘れ物に気づくなんて迂闊ね。自分の行いを振り返る癖をつけた方がいいと忠告しておくわ」
 その相も変わらず偉そうな物言いに対しても、今はまともに返す気になれなかった。
「人身事故だ」
 え、と小さく口にして、彼女は電光掲示板に目をやった。案の定、そこに遅延の表示はない――まだ。
「だから私鉄で行く。満員電車は嫌いなんだ」
 しばしの沈黙。俺が立ち去ろうと思い立ったとき、彼女は慎重に口を開いた。
「もしかして、また『雷』?」
「……ああ」
 短く答えて、俺は歩き出した。園美が後ろを着いてくる気配を背中で感じる。
 俺たちの間で『雷』といえば、まず物理現象の雷のことではない。
 俺は、他人の『自殺の意思』を感知することができる。自殺しようと思っている人が行動を起こす直前、雷鳴が聞こえるのだ。俺は先ほど、おそらく隣の駅で起きたであろう飛び込み自殺を遠雷として感知したので、遅延を避けて路線を切り替えた。
 ただ、それだけのことだ。おそらく彼女も見当がついているだろう。
 ホームに着いて間もなく、私鉄の電車が滑り込んできた。乗り込む人数は俺たちも含めて何人もいなかったが、当然ながらこの時間に座ることは不可能だった。
 最終的に俺の隣についた園美は、いまだ何も話しかけてこない。
 自殺が実行されることを示す雷鳴は、俺自身が聞こうとしなくても聞こえてくる。日常生活の中で、『俺は自殺する』という遺書を投げつけられるようなものだ――そうした人間の心境を慮ってくれているなら、彼女には感謝しないといけない。
「朝っぱらだったから、ちょっと気が滅入っただけだよ。別にそんな、感傷的になることでもない」
 園美に向けたつもりだったが、彼女がすぐに返さないので、どこか自分に言い聞かせるような形になってしまった。
 そう、と園美は漸くこちらに顔を向けて、小さく応える。昔から、彼女は俺がこの話をすると、他のどのときとも違った表情を見せる。
「人身事故が予見できる力って考えれば、むしろ便利かもしれないしな」
「……成長したじゃない、修司」
 彼女はいつもの表情を取り戻しつつ、続ける。
「あんたは聖人じゃないんだから、自分となんら関係のない人の人生なんて、気にする必要ないのよ」
 違いない。むしろ、この世の人々全員の人生を考えないといけないなんていうのは、自意識が強すぎるんじゃないだろうか。自分と関わりのないことに心を閉ざすのも強さだと、今ではそう思える。一つの人生が自殺という形で終わったことを何度も聞かされて、平常心でいることは容易ではないからだ。
 それにこの国では、年間で三万は確実に、推測されるところではおよそ十万以上の人間が自ら命を絶とうとしている。一日一桁にとどまらず、最早、日常茶飯事ともいい難い。
 昨日からの出来事でも実感するが、自殺は、既に俺の日常に深く入り込んでしまっているのだった。
 それから逃げる術は、見つかるのかどうか。
「修司の冷静な判断のおかげで、今日は助かったわ。お礼に、次の生徒会長の選挙に無条件で出馬できる権利をあげる」
「……頼まれたって受け取りたくねえ、それ」
 俺が言い終えてちょうど、白泉――高校の最寄り駅――に到着した。俺たちは電車を降りる。
 空は、相変わらず晴れ渡っていた。

Scene3: Research on the wrist-cutter


 その日の帰り。俺は図書館で時間を潰した後、校門で園美を待っていた。朝は人身事故の件で忘れていたが、彼女に尋ねたいことがあったのだ。
 園美は、生徒会長を務めている。
 だから生徒会室に行けばほぼ確実に会えるのだが、そこは役員でもない俺が長話をする場ではない。それに、全校の憧れであるがゆえに人付き合いには気を遣っている彼女にとっては、俺を特別に優遇することなど有り得ないと言える。
 というわけで、地道に待つ。
 何をするでもなく、学校前の通りを眺める。平日のこの時間帯、あまり人通りは多くない。
 待ち始めてから十数分後、校舎から出てきた園美の姿を見つける。彼女も俺に気づいたようで、声をかけてきた。
「どうしたの、今日は」
 俺たちは並んで、歩き始める。
「大した話じゃないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」
 俺は早速、目的の話を切り出す。
「おまえさ、現代の精神病とかに詳しいよな」
 事実、彼女の父は臨床心理士という職業に就いている。地元の学校でカウンセリングを担い、個人で相談所も開いているとの話だ。
 そして彼女も、人の精神について心得がある。
「ある程度の知識はあるけど、プロじゃないから過信はしない方がいいわよ」
「別にいい。それじゃ、急にだけど」
 俺は少し声量を抑え、言う。
「リストカットについて、知ってる事を教えてくれ」
 その後しばらく、俺たちは沈黙を伴って歩いた。唐突に、園美が俺の右腕を掴んで立ち止まる。必然的に俺も歩みを止めて、彼女と向かい合う形になる。
 俺の腕は速やかにひっくり返されて、彼女の前に裏側を晒す。
 彼女の意図に気づいたとき、最初に感じたのは怒りだった。
 俺は無言で、彼女の腕を振り払った。
「……俺が、そんなことするとでも思ってんのか」
 彼女は、俺が睨みつけても涼しい顔だ。まるで、こうなることが分かっていたかのように。
「本気で思ってたわけじゃないけど、一応」
「ふざけるなよ。俺はそんな人間じゃない」
 俺が言った言葉もそこそこに、園美は再び歩き出して、片手をひらひらと動かす。
「はいはい。そこまで怒るとは思わなかったの。ごめんね」
 本当に、よく分からない行動をとる奴だ。
「謝るくらいだったら、さっさと専門家の見解を聞かせてくれよ。そのために来たんだ」
 はいはい、と抑揚なく発音して、彼女は続ける。
「リストカットというのは、代表的な自傷行為の一つよ。公式な名称じゃないし、病気だとも言えないけど、やはり背景には精神に絡んだ問題がある。
 その行為の目的とするところには、いくつかパターンがあるの。まず一つ目は、周囲の注目を集めようとして行うもの。
 二つ目は、自我機能の回復や、自分の存在確認として行うもの。
 三つ目は、自分の手首を誰かに見立てて、直接伝えられない怒りをぶつけようとするもの。よくあるのは、こんなところ」
「三つのパターン、か……」
「共通しているのは、不安定な感情や精神的ストレスから逃れるためだということね。ということは、人が精神的に不安定になる状況を改善することが、解決への糸口となる」
「でも、それは容易なことじゃないわ。例えば、今じゃなくても過去に何かあったのかもしれないし、遺伝的要因も有るとか言われてる。そもそも、簡単に解決できることなら、悩む必要はないから」
「……」
「学校やその他の公共空間でのことなら手の打ちようもあるけど、家庭内の問題ともなると」
 彼女はそこで口をつぐんだ。
 その理由も分からないでもないが、別に気にしなくてもいいのに、と思う。彼女は俺の過去の扱いについては、普段からは考えられない位に慎重だ。
 事実、俺の家庭環境も、お世辞にもいいとは言えなかった。だから、相当に厄介な問題であることは実感している。
「というより、どうしてそんなことが気になったの?」
「別に」
 英文読解で気になる単語が出たから、辞書で引いたようなものだ。
 その英文の内容には関心がない。
「誰か、身近にそんな人がいるとか」
 つい、語尾に騙されそうになるが、彼女が思いつきでものを言うことは、稀だ。
 彼女なりの根拠をもって言っている。
「いてたまるか、そんな奴」
 吐き捨てる。
 見かけたことは、事実ではあるが。
「一つ、忠告しておくけど」
 急に声のトーンを落として、彼女は言った。
「リストカットをしている人間を、安易に救おうとは思わないで。当事者にとっては、それが唯一の精神安定剤だから、行為自体を責めてはいけない。
 もし接し方を誤ったなら……状況はさらに悪くなる」

Scene4: She looks cheerful.


 数日後の朝、いつもと変わらない登校が完了しつつある。
 階段――つい一昨日転げ落ちた階段を上り、二年五組の教室へ向かう。と、そこを目前としたところで、談笑している女子生徒の集団が道を阻んでいた。
 一番手近に立つ女子に声をかける。
「ちょっと後ろ、いいかな」
「あ、ごめんなさい」
 重なり合っていた笑い声がふっと途絶えて、俺が声をかけた女子生徒は半分こちらを振り返る。
 どこか見覚えがある、と思ったのは向こうも同じだったのか。彼女は俺の顔をちらと見ると、僅かに首を傾け、微笑をくれた。
 内心かなり狼狽えてはいたが、気づくか気づかないか位の角度で会釈をして、歩みを再開した。
 俺の記憶が正しければ。あれは昨日、階段でぶつかってしまった女子生徒だったように思えた。
 放課後、掃除を終えた後に校舎を出る。
 この県立白泉高等学校は、部活に力を入れているというのが大々的な印象らしいが、俺のような帰宅部員もいないわけではない。俺のように、家事があるから早く帰宅するという奴がいるのかは知らないが。
 桜が散ってからしばらく経った時期。だいぶ暖まってきた大気をワイシャツ越しに感じながら、のんびりと歩いていく。
 人が居なければ自殺もない。
 だったら自分の周りに人が居なければいいなどと、馬鹿げた理屈をこねていたのは、いつだったろうか。そんな時期が過ぎても、依然、俺にとっては一人でいるときが最も落ち着ける時間だった。
 校門を出たそのとき、背後から小走りな足音が近づいてきた。間もなく、俺の隣に収まり、こちらに顔を向けてきた人物は。昨日階段で衝突し、今朝廊下で見かけた女子生徒だった。彼女は、苦笑いと取れる表情を浮かべて、話しかけてくる。
「偶然だね」
 小走りに追いかけて果たした能動的な邂逅を、偶然とは呼べない気はするが。
「ああ、最近よく会うな。えっと……」
 そういえば、彼女の名前はまだ知らない。
「私、葵嶋(きしま)彩香です。二年二組」
「あ、俺は――」
「霧原修司くんでしょ。五組の友達に聞いたよ」
 名前まで裏をとってあるのか。今の人付き合いって、こんなに用意周到じゃないといけないんだろうか。
 名前を互いが承知すると、俺と葵嶋さんは並んで歩く形となった。
「霧原くんって、いつも帰りはこのくらいなの?」
「まあ、大体は」
「部活、なに?」
「やってないんだ。ちょっと、家の事情があって」
 すると彼女は、あからさまに、しまった、という顔をした。表情がころころ変わるな、と思う。
「私は、ソフトテニスやってるよ。今日は……サボっちゃったけど」
「ふうん」
 正直、彼女の目的が分からなかった。
 二回目までの出会いは、完全に偶然だった。しかし今回は、積極的にこちらへ接触してくる意図が見える。わざわざこれほど早く下校してまで、何を俺に伝えたいのか。階段で衝突してしまったことを謝りにきたのかもしれないと思ったが、彼女がその話題を切り出すような様子はない。
「霧原くんって、電車使うよね。もしかして、京海線?」
「そう。あ、そういえば俺、今日は駅ビルで買い物しないといけないんだった」
 昨日作り損ねた夕食。今日もまた叔父さんに頼りきりでは、少々情けない。
「そうなんだ。よく駅ビルには寄るの?」
「まあ、本屋と食品売り場とかは」
「へえ。買い物、よく頼まれるんだ」
「そうでもないけど。今日は偶然で」
「ふうん」
 朝、廊下で談笑していたときの彼女には少々近寄り難かったが、こうして話してみると特に窮屈には感じない。
 その後、彼女の質問や他愛のない話をいくつか経て、駅の構内で彼女と別れた。

* * *

 霧原くんと別れて、まだそれほど目まぐるしくない、人々の往来の中を縫って進む。
 果たして、彼の中での私の印象は、ちゃんと上書きされたのだろうか。
 階段で倒れ落ちてきた、あらゆる意味で不安定な女子から、明るく積極的、スポーツに励む活発な女子……に。
 おそらく彼は、私の手首の傷を見ている。
 それがきっかけとなって、もし彼が、私の中身にまでたどり着いてしまったら。そう考えると、怖くて仕方がなかった。
 でも、むしろ下手に動かない方がよかったのかもしれない。思ったよりも、彼は私のことを気にしていなかった。私は単に自意識過剰、そういうわけだったのだ。
 人間関係をイージーにするために、私は私の虚像を作ったというのに、それがいつ見破られるかと怯えている。誰もそんなことしないのに。
 本当に自分は、空回りしていた。
 会話でも、相手を不快にさせてしまうことが多い。霧原くんだって、私といるのが嫌で寄り道したんじゃないだろうか。
 そんなことに思い当たる自分に、猛烈な嫌悪感が湧いてくる。喉の奥に何かが詰まったように、息が苦しい。
 吐き気がして、意識がぼうっとする。身体から魂が二センチ位浮いている感覚。
 あ、ダメだ――やらないと。
 バッグの底に忍ばせたナイフを意識しつつ、私は小走りに化粧室へ駆け込んだ。

* * *

Scene5: An emerging discrepancy


 改札を抜けて、京海線のホームへ向かう。
 駅ビルでの収穫は、トマトの缶詰め、オリーブオイル、パスタ、野菜類諸々と牛乳。最近、トマトソースパスタとはご無沙汰だったので、今日は作ることにした。
 葵嶋彩香と名乗る女子生徒。彼女の存在感は、いまだ俺の中に君臨している。
 彼女のあの笑顔と、左手首の生々しい傷のイメージが、どうしても繋がらない。
 友達もいる、部活もやっている、そして何より、あれほど積極的にコミュニケーションを取ろうとする彼女が、リストカットなどをするだろうか。
 実は、別人なのではないだろうかという考えが浮かぶ。階段で衝突した女子生徒と、先ほど話をした葵嶋さんは、全く関係がない、という考え。
 その方が、理にかなっていると思えたのだった。
 電光掲示板によると、目当ての列車まではあと六分。余裕を持って階段を降りていく。
 帰宅ラッシュを避けるため、ホームの端の方を目指す。その途中、列車を待つ列の中に、見憶えのある横顔を見つけた。
 ショートカット、ミズノのスポーツバッグ、白泉高校の制服。葵嶋さんだ。
 最初は、人違いのように思われた。彼女とは十五分以上前に別れたはずだ。そして何より、彼女の持つ雰囲気の豹変は、あまりに大きすぎた。
 生気が感じられないほどの蒼白な顔。携帯も弄らず、本も読まず、音楽も聴かず、ただ虚空を見つめたまま微動だにしない。
 気分が悪いのだろうか。貧血の症状のようにも見える。
 とりあえず、声をかけてみようと決めると、その前にアナウンスがかぶさる。
 特急列車が通過します、白線の内側で――その瞬間。つま先を向けていた前方で、猛烈に静電気が弾ける音がした。
 俺は、硬直する。
 初夏。もう湿度は低くない。そこでの電子移動音。意味するところは一つ――自殺の意思。
 疑いようもなく、目前にいる葵嶋さんのものだった。
 そうと確信すると、俺は反射的に彼女に対する思考の一切を切り捨てた。
 間もなく踵を返し、彼女と逆の方向へ歩き始める。今度はホームの反対側の端に向かうのかと思うと、質量を持っているかのような倦怠感が、身体にまとわりついた。
 しばらくして、列車がホームを通過していった。
 葵嶋彩香というものは、俺の中ではもう完結した事例として処理されていた。彼女と関わることはもう無いのだろうな、という漠然とした意識があるだけ。
 ごく自然な精神防衛機能。
 他人事を、他人事として切り捨てる。
 雷鳴を聞いたら、逃げなくてはいけない。
 それをせず、意識をそちらに向けたが最後、自分の身が危うくなるから。
 ホームの中ほどまで来て立ち止まると、やたらと汗をかき、鼓動が速まっている自分に気が付いた。対した距離を、歩いていないのに。
 何らかの種類の感情が、俺を振り返らせる。
 見えたのは、 疲れ切った顔でこちらへと歩いてくる社会人達の姿だけだった。

Scene6: The depressed trigger


 それから数日間、俺は葵嶋彩香と顔を合わせることはなかった。
 週が変わり、月曜日の今日。
 いつものように校門を出たそのとき、何者かが横から飛び出してきた。
「こんにちは、霧原くん」
 葵嶋彩香――『快活な』葵嶋彩香は、この前と寸分も違わぬ朗らかな笑顔で、俺に話しかけてきた。
「こんにちは、葵嶋さん」
 未だ距離感がつかめないので、鸚鵡返ししてみた。
 彼女は何の躊躇いもなく、俺の隣に収まる。
「そういえばさ……」
 切り出したのは俺だ。一つ、確かめたい事があった。
「葵嶋さんって、兄弟とか双子とかいる?」
 尋ねると、彼女は答える。
「いないよ。一人っ子」
 これで、疑念は晴れた。
 彼女はこの明るさを持つ裏で、リストカットをし、自殺を企図している人間だということが、はっきりした。
危うい。
 綿のような白い雲でありながら、雷を降らす。明らかな黒雲より、ずっと性質が悪い。
 逃げなければいけない。
「あ、ちょっと俺、用事があったんだ。それじゃ」
 俺は歩調を速め、その場から立ち去ろうとした。
「え……待ってよ!」
 彼女は素早く、俺の鞄を掴んだ。
 振り払うこともできただろう。だが、俺の心には、ある種の衝動が沸き起こった。
 彼女が伸ばしたのは右手。俺は振り返りつつその腕を掴んで引き込み、左腕をとった。
 一瞬の出来事。彼女は、驚愕すらできない。
 ブレザーとワイシャツの袖の下、リストバンドで隠された手首の裏、果たしてそれは曝露された。
 ようやく、彼女の顔が歪む。
「やっぱりな」
 リストカットの傷は、初めて会ったときのものより深い、一本の筋に集約されていた。皮膚が真皮まで裂けて、桃色の肉がのぞいている。
「傷、酷くなってるじゃないか」
 心配というより、糾弾するような口調。どこか、他人が話しているのを聞くような感覚がする。
 彼女は俯いた。表情が読めなくなる。
 自分がなぜこれほど苛ついているのかは、分からなかった。
「なんで、死のうだなんて思うんだ」
 前々からずっと、自分の中で燻っていた疑問。
「友達もいる、学校にもちゃんと来てるし、部活もやってて、成績が悪いとも聞かない。
 一体、何が理由だっていうんだ」
 場に沈黙が流れる。遠く、野球部か何かの号令が聞こえてきた。
 そもそも、彼女に答える気があるのかどうか。
「……分からないの」
 ぽつりと呟く声に、先ほどまでの装飾はなかった。
「分からない?」
「明確な理由はない、のかも」
「……」
 理由がない?
 それなのに、ふと、自分を傷つけたり、死にたくなったりする?
 理解できない。
 負の行為の裏には、負の要因があるんじゃないのか。
 いじめ、虐待、親の死、学業の行き詰まり。
 将来への不安、現状への嫌悪感、その他さまざまな苦悩。
 そうしたものが、人を死に追いやるんじゃないのか。
「だいたい、死のうなんて考えたこと、ないよ?」
 彼女の声は、再び彩度を取り戻していた。
 いいや、間違いなく俺は雷を聴いた――反射的にそう言おうとして、思い留まる。
 俺の能力については、気安く説明できるものではない。
「リスカはさ、なんかファッションでみんなやってるから。興味本位で試したら、失敗しちゃって」
 仲間内以外に見せるのは恥ずかしいんだよね、と言いつつ、彼女は軽く自分の左腕を引く素振りをした。
 その力に従い、俺は彼女の腕を解放した。
 再び、辺りを沈黙が支配する。
 俺は考えを改めた。自殺しようとしている人間の心境を聞いて何になる。自殺しようなんて思わない俺は、それを理解することだって、できるわけがない。
 それに気づいて、費やした時間すら惜しくなる。
「とにかく、俺は自殺しようとしてるような人に関わりたくない」
 こんなことなら、以前会った時に強く拒絶しておけば良かった、そう思ってももう遅い。
「今この瞬間から、俺とあんたは他人同士だ。階段でぶつかる以前の、町ですれ違っても次の瞬間には忘れてるような、そういう間柄に戻る。
 それで、いいだろ?」
 彼女は沈黙したままだ。俺はそれを、無言の肯定と受け取った。
 俺は、衝動的に道を変えた。右の道にそれて、今まで一度も通ったことがない、住宅街を抜ける道へ入った。

Scene7: Coming to myself


 少し速めていた歩調を緩めていって、やがて立ち止まる。振り返っても、葵嶋彩香の姿は認められなかった。
 今更、息を詰めていたことに気づいて、大きく息を吐く。
 俺の選択は、正しかった。
 ふと空を仰ぐと、西から半分にかかる黒雲が見える。
 人が自殺を禁忌とするのは、黒雲を忌み嫌うことと似ている。
 いつ自分に落ちてくるともしれない、雷。
 いつか自分に訪れるであろう、死。
 そんな不安の下にいたくないというのは、おかしいだろうか。
 誰だって同じはずだ。人身事故を目撃した運転手が、乗客が、いじめられて自殺した生徒の同級生が、自分の死を意識せずにいられるだろうか。
 普段は意識しないようにしていることを目の前に突き出されれば、いい気はしないに決まっている。
 だから、人は自殺を禁忌とする。
 いつの間にか俺の右側にフェードインしていた人物から、声をかけられた。
「ずいぶん酷い事をするのね」
 彼女の声に、非難の色はない。
「自分が心安らかに生きるためなら、どんな酷いことだってするつもりだ」
「殊勝な心がけだわ」
 彼女は、無表情で微笑んだ。どうしたらそんな笑い方ができるのか。
「おまえ、生徒会は?」
「塾があるって言って、副会長に丸投げ」
 心の中で、副会長に両手を合わせた。受験生にそれを言われて、認可しないとは言い難い。
「全て拝見、及び拝聴させてもらったわ」
「なんで、今日に限って」
「女の勘よ」
 教えるつもりはないってことか。
 俺たちはいつものように並んで歩く形となる。日常と違うのは、通っている道と、俺の心情くらいに思えた。
「……本当にいいの?」
 主語はない。だが、彼女の言いたいことは明白だ。
「いいも何も、無理なものは無理だ」
 俺の能力は自殺を感知する力であって、人に自殺をやめさせる力じゃない。
 そもそも、自殺しようとしている人間を止める方法があるのだろうか。
 命の尊さを説けばいいのか。希望に満ち溢れた未来を示せばいいのか。生きたくても生きられない人もいると、諭せばいいのか。
 おそらく、無駄だろう。
 葵嶋彩香と出会う以前から、何度も考えてきたことだ。どんな綺麗事を示されようと、俺はそれを無駄だと言い切れる自信があった。
「そうね」
 意外にも、彼女はあっさりと肯定した。
「もし素人が心の病気を治せるのなら、臨床心理士なんて職業、要らないし。
 専門家に任せて、第三者は干渉しないのが最善の方法」
 全くの正論だった。
「これで一件落着、ってわけね。あの子の秘密は守られたし、あんたの気苦労も一つ減った」
 さっきから、何か彼女の言葉が引っかかる。葵嶋彩香の件を非難するのかと思えば、打って変わって俺の考えを支持する。今一つ、要領を得ない。
「……何が言いたいんだ」
 こいつ相手になら躊躇もしない。できるだけの剣幕を作り、低い声で威圧した。
 彼女はすぐには答えず、視線を下のアスファルトに向けて、ため息を一つつく。
「唇」
 言って、彼女は自身の下唇に触れた。
「切れてるわよ」
「……」
 自分の唇を確かめてみると、指に点々と血がついた。加えて、俺の手は細かく震えていた。揺れ動く紅い染みに、気分が悪くなる。
「こういうことは、頭で考えても無駄なのよね」
 だから行動に出るの、と彼女は付け足した。
 そして俺は、ようやく彼女の求めていることを理解する。
「本当のところ、どうなの?」
 既に、俺の血が八割方のことを物語っていた。
 彼女を助けることは不可能。だから、彼女に歩み寄れば、否が応にも俺は雷を見ることになってしまう。したがって彼女を避けるべきだ。
 この論理は破綻していないはずなのに、俺自身の中にそれに抗う何かがある。
 そのとき、滞った俺の思考を打つように、くぐもった雷鳴が轟いた。
 閃光もなく。
 俺は反射的に空を見る。天球を覆い尽くした黒雲の海は、それが通常の雷であるという可能性を与えてくれる。
 園美に確認しようと振り返るも、彼女はその暇も与えずに首を左右に振った。
 彼女には聞こえなかったそれは、つまり。
 俺は、鼓動が早まるのを感じながら、音のした方角を探る。
 それは、ついさっきまで、俺と葵嶋彩香が向かっていた方向――白泉駅のある方向と、完全に一致していた。
「まさか……」
 その予感は、園美にも伝わったのだろうか。彼女は俺と同じ方向を見て、顔を曇らせる。
「もしかして、彼女が、なの?」
 とても、その問いに答えられるような心境じゃなかった。
 俺は何をすべきかという問いが、脳内を周回し始める。
「私は、修司の気持ちに従おうと思う」
 そんな俺より早く、園美は自ら状況を分析し、自分なりの答えを出していた。
「ここであなたを見送ることも、一緒に帰ってあげることもできる」
 だから、それを今俺も考えているところだ。彼女は俺の答えを待つのかと思いきや、しばらく俺の目を覗き込み、言う。
「……と言っても、もう結論は出てるみたいだけど」
「え?」
 俺はまだ、何も決めていない。そう言おうとした。
「今までの修司なら、考える必要はないはずなのよ。習慣に従って、離れるだけ」
 ……言われてみれば、その通りだ。
 本来なら、『雷』に近づくという発想すら出てこないはずなのだ。
 その『雷』――おそらく葵嶋彩香の――に近づくということを考えた時点で、彼女を無視したくないってことじゃないか。
 それを自覚すると、自ずと,答えは決まる。
 下唇から顎に伝ってきた血を、手の甲で拭った。
「悪い、園美。先に行く」
 彼女は、やっぱりという顔も、意外だという顔もしない。ただいつものように、すべて分かっているような余裕とともに、立っているだけ。
「悪いなんて思わないけど、決めたんだったら責任持ちなさいよ」
「ああ」
 来た道を戻るか、手探りで駅へ向かうか、しばし迷ったが、自分の感覚を信じて、駅の方向への曲がり角を目指すことにした。
 事態は一刻を争う。
「あと、交通法規は守ってね」
「……努力する」
 鞄を放り出して、俺は走り始めた。

* * *
 修司の姿が、角を曲がって見えなくなった。
 あの日、修司がリストカットの話を持ち出してから。葵嶋彩香という後輩をあらかじめマークしておいたことは、正解だったのだろうか。
 自傷行為をする人物として。修司と関わらせないよう警戒していたのだが、先ほどの私は、まるで逆のことをしてしまった。
 放り投げられた彼の鞄を拾い上げる。大して重くはなかった。
 人間とは本当に、我慢のきかない生物だと思う。
 申し訳程度の理性があるとはいっても。
 それこそ、アダムとイブが、知恵の果実に手を出してしまった瞬間から、現在に至るまで。
 結局、私も修司も、現状に甘んじることができなかったというわけだ。
 それはおそらく、葵嶋彩香も同じだろう。自分の苦しみを吐露しないから、助けを求めることもできずにいる。修司の、抑えつけられた苦しみのように。
 だが、二人は気づいているのだろうか?
 自分の感情を抑圧するのは、安全策であると同時に。
 自分の一部を殺す行為でもあるいうことに。

Scene8: Chasing


 霧原くんを追いかける気にはなれず、私は残りの道のりをひたすら駆け、白泉駅の南口に着いた。
 階段の前で立ち止まり、息を落ち着かせようと試みる。自分の鼓動に合わせて、リストバンドの下がズキズキと疼く。
 見られてしまった。彼に、自分の本当の姿を見られてしまった。よりにもよって、霧原くんに。そしてそれを見て、彼は私が死ぬつもりだと思ったらしい。……死にたいなんて、思わないのに。
 階段を駆け上がる。
 私は、もう少しだけ楽に生きていきたいだけなのに。勉強なんてできなくてもいい。テニスだって、もっと才能がほしかったなんて思わない。
 人々の波に打たれながら進む。うまく間を通り抜けることは、最早叶わなかった。
 ただ、偽ることなく。誰かに合わせて愛想笑いしたり、思ってもいないことを言ったり、いじめの片棒を担いだりすることもなく。まっすぐに、自分に嘘をつかずに生きていきたいだけなのに。
 高望みなんてしていないはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
 涙も出ない。意識がうわつくような、いつもの感覚がやってきた。改札を抜けて、いつもの場所へと急ぐ。
 早く開放されたい。そのために私が取る方法は、一つしか無かった。

* * *

 一心に、駅へと走る。
 信号が無いような細い道を選んで進んでいく。
 さっきから、雷鳴が聞こえてきていた。それは自然現象としての雷か、それとも――。どちらにせよ、その音は俺の心臓を締め上げる。
 葵嶋彩香を見つけたとして、どうするかなんてことは考えていない。
 ふと、顔に水滴が当たった。そしてまもなく、地面のアスファルトにまだら模様が広がり、やがてその色を黒に近づける。
 俺に何ができるのかなんて、分からない。それでも、目を背けることはしてはいけない、向き合わなくてはいけないんだという確信に、追い立てられていた。

* * *

 ナイフの感触が、いつもと違った。
 いつもは、切った跡がスースーするくらいに冷たく感じるのに、今日は生ぬるいとさえ思える。
 そうしている間にも、自分の魂は身体から乖離するばかりで、全く一致してくれない。
 無駄だと分かっていても、私は何度も自分の腕を切りつける。
 ――自殺しようとしてるような人に関わりたくない。
 ――関わりたくない。
 彼の言葉が、トイレの個室内で反響する。それから逃げ出すように、私は個室を出た。

* * *

 白泉駅に着いた。
 雷鳴の間隔は、今や数十秒に一度。加えての雨音で、鼓膜が緩みそうな錯覚に囚われる。しかし、とりあえず屋根の下に入れたことで、生きた心地を取り戻した。
 ――別に俺は、彼女にここまでする義理があるわけじゃない。
 階段を一段飛ばしで上り、まずは京海線のホームへ走る。
 ――ただ。
 途中、俺は足元に見えたものに思わず足を止めた。
 血痕。
 白いタイルを背景に、点々と続いている。タイルは雨で濡れているというのに、それはまだ大して滲んではいなかった。
 ――黒く澱んでいてもいい。ドロドロしていて、目を背けたくなるような思いを、抱いていたって構わない。
 そこで、アナウンスの前置きであるメロディが流れる。前方に下がっている電光掲示板に、『列車が通過します』の文字が点滅し始める。
 ――どんなに嫌なものでも、それが人間なら。無視することなんて不可能だと分かったから。
 血痕を追っていく。正面から、人の波が押し寄せてきても、全身そぼ濡れた俺にぶつかってくる者はない。図らずも、容易く進むことができた。
 結局、血痕が続いていたのは京海線の階段だった。やはり、一段飛ばしで駆け下りる。
 ――彼女と、最初に階段で出会ったとき。思わず、俺が受け止めようとしたように。
 階段を駆け下りていく途中。雑然としたホームの中で、直線的にざわつきが広がっているのを感じた。その先には、おそらく。
 躊躇いは無かった。ホームに足をつけて数歩、俺は線路へ飛び降りる。
 ――完全に無視することができなかったのなら。最後まで、責任を持って干渉してみせろ。
 ホームの端の方、俺の百五十メートルほど先に、彼女の姿はあった。
 悲鳴や怒鳴り声が背中に投げつけられるが、そんなものに答えてやるような暇はない。邪魔の入らないレールの上を走り出す。足を着く度、蹴る度、砂利が弾け飛んで音を立てた。
 列車が通過します、と描き点滅する赤いLEDが、視界の隅で血が伝うように尾を引く。
「葵嶋さん!」
 できる限りの大声で、呼びかける。
 聞こえていないのかもしれない。彼女が振り向く様子はない。
 前方、目測五百メートルほどに、列車のヘッドライトが迫ってきていた。
 間に合え、間に合えと念じながら、俺は最後の距離を詰める。彼女の背はぐんと近づいた。
 そして俺は、彼女の肩に手を伸ばす。届くと思った、その瞬間。目の前で雷鳴が轟き、ほぼ同時に、閃光が走る。
 一メートルあるかどうか、という位の至近距離。雷鳴は最早、衝撃波となって俺を弾き飛ばそうとする。閃光 は、実際の稲光なのか、音からきた俺のイメージなのか、判別し難い。
 それでも俺は。腕の骨が何分割もされるような痺れさえ覚えながら、禍々しい光の奔流へと、手を伸ばす。彼女と、もう一度向き合うために。
 彼女の肩に触れたのと、列車のブレーキ音が響いたのは、同時だった。

Scene9: Clouds in the crowd


 白泉駅の南口を出る。
 真上から、強烈な夏の日差しの洗礼を受けた。ここで若干、登校が面倒に思うのも、いつものことだ。
 彼女は、俺の少し後ろをついてくる。さっきまで無言だったが、唐突に口を開いた。
「ごめんね、わがまま言って」
 俺は、地面に反射して目に刺さる光に顔をしかめつつ答える。
「別に。いつも俺、ちょっと早いくらいだったし」
「それでも……とにかく、いろんなことで、ごめん」
「……」
 やっぱり、電車が良くなかったのだろうか。
 葵嶋さんの家から学校に来るとなれば、彼女はどうしたって京海線を使わざるをえない。そしてそれが、ひと月前の事件の現場であった京海線であるのは、仕方がない。
 それでも何か、俺も言葉を返さないといけない気がした。
「無事だったんだから、いいんだよ」
 俺はあのとき、彼女を何とか押し倒すことに成功したらしい。
 一概に言えることではないが、線路と車両の間には隙間があることが多い。線路の中央部分にきれいに寝そべることができれば、負傷しない可能性はあるそうだ。実際、俺も葵嶋さんも、制服の背中が破れたくらいで済んだ。
 ただ彼女は、線路に入る前に左腕全体を出鱈目に刃物で傷つけていたらしく、その出血がかなり多かったという。当然、未だ見て取れる傷も多く残っている。だから彼女のワイシャツは、長袖だ。
「俺こそ、葵嶋さんに謝らないと。最初に酷いこと言ったの、俺だし」
 彼女は、ちょっと感情的に言い返す。
「違うよ! 霧原君はなにも悪くない!」
「……うん、じゃあそういうことでいいよ」
 これから問題となるのは、外傷じゃなかった。
 人身事故で電車を遅らせるというのは、かなりの乗客に迷惑をかける。それで事件後、葵嶋さんの家は賠償金を要求されることとなった。そして怪我の治療もあって、彼女は今日まで学校に来ることができなかった。
 目の前で、信号が赤になる。俺たちの前後関係は変わらず、歩みだけを止めた。
 その一ヶ月の空白が、付き纏う特殊な事情が、彼女が戻ったときにストレスにならないかと、園美は気を揉んでいた。というより俺も、つい最近までそうだった。
 でも今は、それは余計な心配だと思える。
 なぜなら――今日ここに登校している彼女の姿こそが、何よりの証明だ。
 彼女は、親から、相談に行った園美の父から、転校を勧められていた。しかしそれを振り払って、彼女は今ここにいる。
 それは、今までの自分の清算をしようということらしい。
 そして、どんな悪意からも、どんなに暗く冷たい感情からも、目を背けないという意思表明であるのかもしれない。
 ふと、視線を上げる。
 駅前の高層マンション街は過ぎているので、もう白泉高校の校舎を望むことができる。ちょうどその背景には、幾つにも折り重なって、立体感を主張する入道雲が浮かぶ。
 まるで、俺たちを待ち構えるように。
「夕立、来るかもしれないなあ」
 彼女も、あの雲を認めただろうか。小さく、車の音にかき消されそうな声で、相槌を打つ。
「うん……」
 人の中で、生きるためには。すなわち、人間として生きるためには。頭上に、形のない不安を感じるのも、仕方がないことなのかもしれない。
 ――彼女は、人に避けられることを恐れた。俺は、不安定な人々を恐れた。
 その雲を眺め続ける。穴を開けるような勢いで睨んでも、その雲は消えはしない。
 ――その恐れが、消えたわけではないけれど。
 ――いつ雷が落ちるか、土砂降りの雨に降られるかと、怯えながら。
 歩き始めた人影が視界の端に入る。信号は青になっていた。
 彼女の右手が、俺の左手にそっと触れる。
 ――手を取り合って、進んでいくことはできる。
 俺は、歩みを再開した。










(『Cumulonimbus』 了)

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