ワイシャツとスラックスを着終えて、あとは眼鏡をかけるだけだったが、見つからない。水泳の授業でくたくたになり、たるんでいた気持ちが緊張し始める。
僕はバッグの中身を全部外に出してみた。バスタオル、脱いだ水着と水泳帽、ゴーグル。ぼやけた視界でも、それ以上のものは入っていないように見えた。
バッグを置いておいた周りや足元にも、落ちている様子はなかった。
盗られた?
稲妻のように閃いた直感は、徐々に存在感を増した。誰が。何のために。そんなこと、考えれば分かることだ。嫌がらせに決まってる。これまでにも、僕は些細ないたずらを受けてきた。掲示物の写真に、画鋲で穴が開けられていたり、机の中に紙くずが放り込まれていたり。でも、その程度だった。そこからエスカレートすることはなかった。僕は、それをいじめだとは思わなかった。それほどシリアスになる問題じゃない。この手のいたずらをするのは、面と向かって僕を中傷する勇気もない弱い人間なんだ。そう思うことで、自分の意識が「いじめられっ子」に転落してしまうのを防いでいた。
でも、眼鏡を隠すのはさすがに酷いんじゃないか?
ふと気づくと、さっきまでの喧騒と、暑苦しさが薄れていた。すし詰め状態だった更衣室から次々に人の姿が流れ出ていく。僕は慌てて荷物をまとめ、適当な集団の後ろについて外へ出た。
更衣室を出ると、渡り廊下が校舎まで続いている。やたら敷地の広いこの中学校は、大小二つのグラウンドの周りを囲むように校舎が並ぶ。それらを結んでいる渡り廊下からは、ただの草っぱらやテニスコート、庭園を模したスペースやイチョウの木の列などが、少し距離をおいて見られる。眼鏡をかけていない今は、それらの情景は滲んだ水彩画のようにぼやけてしまっているが。
前の集団から、何人かの聞き慣れた声が聞こえる。けれども、僕の知らない人の名前が飛び交っているので、話に入ることはできなかった。
こうやって、コバンザメのようにひっそり集団の後ろにくっついて行くのは、「僕には友達がいません」って吹聴しながら歩くのと同じくらい、恥ずかしいことのように思う。
別に、普段から誰とも話さないわけじゃない。学校に来ているのに、無駄な会話を一度もしないで過ごすなんていうのは非現実的に過ぎる。僕には友達がいるのだ。いるけれども、みんなにはそれぞれ僕より仲のいい友達がいるんだろう。誰の一番でもないから、僕はただの一人も自分の近くに拘束しておくことができずに、置いていかれてしまう。徐々に、僕と前の集団との距離は開いていった。
* * *
次の授業は数学だった。
眼鏡がないんだから、僕の席から黒板の文字なんて見えやしない。ただ、授業自体は塾でやったところだし、特に板書をする必要もないだろうと思った。
視界に入ったものが意味をなさないなら、ずっと目を閉じているのと大差ない。数学教師の声が徐々に遠ざかり、身体が重力に負けて沈んでいくのが分かった。水泳の授業の疲労も手伝って、僕は実にスムーズに居眠りへと移行することができた。
そうして心地よいまどろみに身を委ねて、何分、何十分経ったのか、正確なところは分からない。寝ている間は、五感はもちろん、時間感覚だって働いていないのだから。
「聞いてるかー、朝霞(あさか)」
自分の名前が呼ばれて、一瞬で意識が覚醒した。
「はい」
「おまえ、質問が何か分かってるか?」
まだ三十前半くらいに見える若手教師。少し高めの声は、怒っている風ではない。それよりも、じっと耳を済ましているかのように静かな生徒達を意識して、緊張する。
「すいません、聞いてませんでした」
「じゃあ改めて聞くぞ。『朝霞が寝るまでに、数えたヒツジは何匹だった?』」
クラスの方々から、笑い声が上がった。調子づいた教師は「整数でいいぞ」などと言って、さらに聴衆を煽る。僕は全く笑えなかった。人をダシにして笑いをとる奴は、嫌いだ。少し場が落ち着いてきたころ、口を開く。
「うとうとしてただけなんで。数えては、ないです」
笑い声の残響は消え、また場は静まり返った。
「……そうか。授業ちゃんと聞いてろよ。
じゃ気を取り直して、この問題。藤村ー」
教師は、ぞんざいに僕との対話を終了させた。僕が冗談に付き合わなかったから興が冷めた、とでも言いたげだった。
その後の授業は、永遠にも思えるほど長い時間だった。時計の針は見えない。耳に入ってくる鬱陶しい声を聞くたび、グズグズとしつこい苦々しさが蘇る。胸の奥にヘドロが渦巻いているような感覚が常にまとわりつき、眠りに戻ることも出来なかった。
ようやくチャイムが鳴り、無益な五十分が終わった。授業の最初から最後まで何もしなかったのは、初めてだった。
眼鏡があれば、僕はいつも通り真面目に授業を受けていたのだろうか。教師のくだらない冗談を聞きながら、せっせとノートを取り、当てられれば答える。だからどうした。それはそんなに尊いものなのか。ひとたび眼鏡を取れば、全てが無意味になってしまうのに。授業をサボる人たちの気持ちが、少しだけ分かったような気がした。
僕が、この学校という場所に来て、決められた通りに、実に優等生的に行ってきた全てのこと。その価値は本当だろうか。いったい誰が「いい子でいるのは良いことだよ」と保証してくれるのか。自分で勝手に、そう思い込んでしまっただけじゃないのか。分からない。
僕が今立っている足場はたぶん、些細なことで崩れ去ってしまうくらいに脆い。それこそ、眼鏡が無くなったくらいのことで。
眼鏡を捜す時間は取れそうになかった。次は給食だ。机を六つずつ固めて、エプロンを付けて配膳の列に並ぶ。ここでもまたグループができる。列は一列なのに、自然と仲がいい同士の四、五人で連なってダベり合う。この光景を見ると、磁石でクリップをくっつけていく遊びを思い出す。何らかの目には見えない力が、彼らを連結している。僕にはどうすることもできないし、原理もわからない。彼らの関係は、僕ごときには決して手が届かない、神の領域にある。
いつものことだけれど、僕はグループの合間に挟まり黙りこくっていた。すると、ぼんやりと眺めていた前の集団のうちの一人と偶然目があった。いや、表情がよく見えないから、こっちに顔を向けただけかもしれないが。
「あれ、朝霞。何でメガネ外してんの?」
声を聞いて、初めて誰だか分かった。下河原(しもがわら)――少し、人気者過ぎて近寄りがたいけれど、挙動に荒々しさがないから、わりと安心して話せる相手だ。
「いや、ええと」
急に話しかけられて、頭を会話用に切り替えるのに少し時間がかかった。言葉を続けようとして、僕は、凍りついた。
なんでみんな、僕を見てぼそぼそ話し始めるんだよ。さっきまでのハイテンションはどこにいったんだよ。
僕が言葉に詰まると、この一帯の空気が急速に白けていく。
表情が見えなくても、分かる。こいつらは、罠にかけた獲物がじたばたするのを見て、ひそやかに愉しんでいるのだ。
口角を吊り上げるだけの者もいれば、忍び笑いをもらすのもいる。少し顔を俯け、互いに目配せをしながら、冷たく甘ったるい、悦楽の空気を皆で分かち合う。
今まで何回ともなく見てきた、僕の大嫌いな光景が、霞んでいるはずの視界に克明に描き出される。もう、確信した。
衝動的に、僕は一歩踏み出して、一番近くにいた下河原の胸倉をつかみ上げた。
「返せよ」
思いの外、低い声が出た。
人の細かい表情がわからないのは、この場合、好都合だった。
「眼鏡、返せよ」
相手が怯えようが驚こうが、僕には見えない。だから構うものか。今なら、相手がどう思うかなんて考えずに、堂々と、自信を持って、普段飲み込んでしまうような言葉も遠慮なく吐ける気がした。
「何言ってんだよ朝霞、眼鏡って……」
下河原の声は憔悴しているように聞こえた。けれど、分からない。顔の方はニヤけているかもしれない。彼の言葉には耳を貸さずに、叫んだ。
「とぼけるな! お前らが盗んだんだろ!」
教室が、水を打ったように静まった。ここにいる人々全員から注目されているのかもしれない。けれどそれも、分からない。僕は構わずに続けた。
「普段、おおっぴらに僕に悪口言わないのは、僕が優等生だからだろ。先生の前で並んだら、立場で敵わないからだろ。だから、ちまちましたイタズラするしかないんだろ。
認めろよ。自分は弱っちい人間だって。ヘラヘラしてんじゃねえよ。何人も集まったくせに、何でそんな小さなことしかできないんだよ。ほんとに小さくて悲しいなお前ら。生きててもしょうがないよ。死んだほうがいいよ」
僕が何を叫ぶかは、この場合大して重要でないのだろう。どこぞの体育教師の説教のように、相手を威圧出来ればなんでもいい。一同はすっかり怯んでしまったのか、僕と下河原の周りから一歩引いていた。
「私、先生呼んでくる!」
突然、よく通る女子の声が意識に割り込んできた。先生という言葉を聞いた瞬間に、僕は金縛りにあったように動けなくなった。背中にじわりと熱が広がり、胸にはひやりとした冷気が降りてくる。叱られる。お前は品行方正だと思っていたのに、という失望の言葉に貫かれる。そんな将来を予見したのだ。僕は焦りに負けて、下河原の身体を下ろした。そして、おぞましい非日常と化した教室から逃げ出した。
僕は、あてもなく走った。給食の入った食缶やコンテナを運ぶ人たちが、目に入っては消えていった。
やっぱり、僕には向いていない。たとえ人の細かい表情がわからなくて、みんなのっぺらぼうに見えていたとしても。道を外れたことをすれば、「優等生」でなくなれば、必ず恐ろしい天罰が下る。死んだほうがマシなくらいの罪悪感、自分は罪人であるという意識に首を絞められる。そう確信している。僕は臆病なのだ。だからこそ眼鏡を掛けて、人の顔色をうかがって、誰かを不快にさせないように、慌てさせないように生きていたのだ。人の表情が分からない世界は、怖いだけだ。誰もが僕を見て顔を歪めている、そんな錯覚を振り払うことができない。
一刻も早く、眼鏡を取り戻したほうがいい。昼休みなんて待っていられない。僕が、あるいは下河原たちが水泳の後に行った場所全てを、しらみ潰しに探していこう。
男子更衣室の前にたどり着いた。服が汗で身体に張り付き、気持ち悪かった。取手に手をかけ、ぐいと横に引いた。扉は開かなかった。鍵がかけられていたらしい。僕は無駄だと分かっていても、もう二、三度力を込めた。当然、開くわけがない。
僕は拳で扉を殴りつけた。ただこの相手は、ガラス製のヤワそうなものじゃない。物々しい鉄扉だった。その雄大さに腹が立った。何度も何度も楯突いて、拳の痛みが限界に達すると、僕は頭を思い切りそらし、勢いよく扉に打ち付けた。ぱっとしない、どんくさい音が頭蓋に反響して、ひどい痛苦に少し涙が出た。脳細胞が死ぬから人の頭を叩くなという、祖母の小言が思い出される。ちょうど良いじゃないか。眼鏡をなくしたままならば、僕はいっそバカになってしまいたかった。
立っているのも辛くなり、僕はひざまずいて手を扉につき、前かがみになった。すると、僕のぼんやりとした視界の下端に何かが現れ、カシャリと軽い音を立てて地面に落ちた。
手に取ると、僕の眼鏡だった。
僕の頭の中は一度空白になり、眼鏡を見つけたという安堵は湧かなかった。冷静に事を検証していく。つまり僕は、水泳の授業前に、眼鏡を無意識にワイシャツのポケットに引っ込めていて、プールから出たらそれを忘れてしまった。そこで誰かが盗んだと勘違いをして、モヤモヤしつつ授業を受けた。胸ポケットに眼鏡を入れたまま、である。そして給食の時間、初めて眼鏡のないことを指摘した下河原が犯人と決めつけて、胸倉を掴んで「返せ」と言った。胸ポケットに眼鏡を入れたまま、である。
こういうのをバカというのだろうなあ。脳細胞だの、成績だの、そんなものは基準じゃない。僕は自分自身が生粋のバカであると真に理解した。
なにやら渡り廊下が騒がしい。何人かの足音が、絶望的に迫り来るのが分かった。この後の展開は想像するまでもない。バカでもわかるさ。万事休すだ。僕はとりあえず、眼鏡をかけ直そうか直すまいか迷った。そのときふと思い立ち、眼鏡を上下逆にしてかけてみた。眼鏡のつるはうまく両耳に乗り、視界がクリアになった。うん。めでたしめでたし。
(了)
2013年6月20日公開